木のベンチは湯上がり

 井ノ渡比奈は、木曜の夜だけ銭湯へ行く。

 家にも浴室はあるし、職場からは少し遠回りになる。それでも「松葉湯」の高い天井と、湯上がりの木のベンチが好きだった。

 脱衣所では、誰も比奈の役職を知らない。

 髪をまとめれば、上司も部下もなく、同じ籠へ服を入れる客になる。

 湯船で話しかけられても、話題は湯の温度、明日の天気、八百屋の白菜くらいだった。

 比奈には決まった順番がある。

 体を洗い、熱い湯へ三分、ぬるい薬湯へ長めに浸かる。最後に水を一杯飲み、脱衣所の木のベンチへ座る。

 急いで着替えない。

 湯気が肌から消えるまで、扇風機の風を受ける。

 ある木曜、薬湯が故障していた。

 番台の主人は何度も謝ったが、常連たちは「今日は白湯の日だ」と笑った。

 比奈はいつもの順番を崩され、少し落ち着かなかった。

 熱い湯から上がり、いつもより早くベンチへ座る。

 隣に、見かけない若い女性がいた。

「初めてですか」

 比奈が訊くと、女性は首を振った。

「三回目。でも毎回、何をすれば常連らしく見えるか分からなくて」

「常連らしくする必要、あります?」

「皆、迷いなく動くから」

 比奈は自分の順番を思い出し、笑った。

「今日は薬湯がないので、私も迷ってます」

 二人で瓶の牛乳を買った。

 比奈は白、女性は珈琲。蓋を開ける小さな音が並ぶ。

「家の風呂より、何がいいんでしょう」

 女性が訊いた。

「上がったあと、すぐ家事をしなくていいところ」

「私は、すぐ一人にならなくていいところかも」

 それ以上、事情は訊かなかった。

 閉店近く、常連たちが一人ずつ帰った。

 木のベンチには石鹸と乾いたタオルの匂いが残り、扇風機が空の籠を少し揺らした。

 女性は先に立ち、「また木曜に」と言った。

 比奈も「たぶん」と答えた。

 外へ出ると、夜風が湯上がりの首筋へ涼しかった。

 薬湯がなくても、松葉湯は松葉湯だった。決まった順番を守るためではなく、順番が崩れても座っていられるから、ここへ来るのかもしれない。

 比奈の髪には石鹸、口には冷たい牛乳の甘さが残り、家までの遠回りがちょうどよい長さに感じられた。