未来は秤に載らない

灰青市では、恋人が別れると〈喪失量申告所〉へ行く。

指輪、手紙、共同財産、共有した記憶。

失ったものを銀の秤へ載せ、重さに応じて心の傷を治す薬が支給される。

リェナとカドムは、山脈の道を描く地図師と、弟妹を養うパン職人だった。

カドムは十年の遠征隊へ加わる。

リェナは店と家族を置いていけない。

二人は愛し合ったまま、別れることを決めた。

窓口の係員が訊いた。

「共同住宅は?」

「ありません」

「婚姻証書は?」

「ありません」

「子どもは?」

「いません」

「共有財産は?」

「この鍵くらいです」

鍵は、二人で借りるつもりだった家の見本だった。

契約前に遠征の話が決まり、開く扉はまだ存在しない。

係員が秤へ載せる。

針は動かなかった。

「価値なし、ではありません」

係員は慣れた声で言った。

「未取得物は、損失として計上できないのです」

リェナは、鞄から小さな紙束を出した。

「ここに、子どもの名前があります」

「実在しませんね」

「庭へ植える木の種類も」

「植えていません」

「老いたら置く椅子の場所も」

「その家自体がありません」

紙を一枚ずつ載せても、秤は沈まなかった。

カドムが苦く笑う。

「僕ら、何も持ってなかったんだな」

「違う。持つ直前だったの」

失ったのは、過去だけではない。

まだ起きていない朝。

喧嘩して仲直りするはずだった夜。

呼ばれなかった子どもの名。

二人で年を取ったときにしか座れない椅子。

けれど未来には形がなく、秤には載らない。

係員は申告書へ印を押した。

〈喪失量――零〉

傷を治す薬は支給されなかった。

庁舎を出ると、カドムの遠征隊の鐘が聞こえた。

二人は最後に鍵をどちらが持つか話した。

「リェナが」

「開く家がないのに?」

「だから。僕が持つと、帰る場所だと思ってしまう」

リェナは鍵を受け取り、彼の首へ焼きたてのパンを一つ掛けた。

「十年も持たないよ」

「今日食べるものだから」

「未来の約束は?」

「しない」

二人は抱きしめ合い、別々の道へ進んだ。

リェナは鍵を店の引き出しへしまった。

何年たっても錆びず、何も開かなかった。

公的記録では、二人が失ったものは零だった。

けれどリェナは知っていた。

形にならなかった未来ほど、失ったあとに大きく広がるものはない。

秤に載らないから軽いのではない。

世界のどこにも置けないほど大きかったのだ。