本番鍵は送らない
午後十一時四十七分。チャット欄に、前と同じ文が浮かんだ。
《急ぎなので本番鍵送って。顧客障害、俺が直す》
送信者は共同創業者の御厨。榊原凪が立ち上げたクラウド会社で、技術責任者を務める男だった。
前の人生の凪は、机に置かれた六桁表示のセキュリティトークンを見ながら迷い、結局、管理者鍵を送った。二十分後に全顧客のデータが外部へ複製され、翌朝には漏洩が公表された。御厨は「凪が独断で渡した」と証言し、自分だけ競合へ転職。解約と賠償で会社は三か月後に破綻した。
その三か月を生き切った記憶を持ったまま、凪はこの一分へ戻っている。
オフィスのソファでは、障害対応に備えた新人が毛布をかぶって眠っていた。前回、その子は漏洩発覚後に泣きながら顧客へ電話をかけ続けた。凪はもう、誰かの善意を裏切り者の盾にさせない。
トークンには、前回と同じ数字が出ていた。
073912。
凪は返信した。
《送らない。障害番号と変更申請を出して》
すぐ既読がつく。
《そんな暇ない。俺を信用してないのか?》
前回、胸を刺した一文だ。今度は痛くない。
《信用と全権限は別物だ。閲覧専用の一時鍵を送る》
凪が渡したのは、本番環境へ入れない監査用鍵だった。ただし、不正な接続元を記録する罠を仕込んである。
三十秒後、警告灯が赤く点滅した。
接続先は顧客サーバーではない。海外のデータ販売業者が使う中継機。さらに御厨の端末から、顧客一覧を一括取得しようとする命令が飛んだ。
凪は画面を保存し、監査役と警察相談窓口へ同時転送する。御厨から通話が入った。
「凪、これはテストだ。誤解するな」
「前は、その誤解で会社が潰れた」
口にしてから、自分でも驚くほど声が静かだった。
午前零時。前の人生では最初の顧客データが持ち出された時刻。監視画面の流出件数は、ゼロのまま動かない。
代わりに、最大顧客の運用責任者からメッセージが届く。
《不審接続を自動遮断した報告を確認しました。来年度契約も更新します》
その下に、見たことのない緑色の表示が灯った。
《重大事故なし――連続運用日数、更新中》