機内モードの青

搭乗口が閉まるまで、あと十分だった。

鳴滝蒼志の背中を見つけたとき、榊原依都は足を止めた。紺色のジャケット、黒いキャリーケース。その取っ手には、二人でシンガポールへ行ったときの青い荷物札がまだ結ばれている。

昨夜、共通の友人が載せた写真には、蒼志が白いドレスの女の隣で笑っていた。説明はなかった。依都は一晩かけて、彼が結婚するのだと決めつけた。

十四時二十一分。

〈おめでとう。もう連絡しない。最後に顔を見られてよかった〉

送信。未読。

蒼志は搭乗列に並んだまま、携帯をポケットへ入れた。画面には飛行機の小さな印が見えた。機内モードなのだろう。

依都は呼び止めなかった。名前を叫べば、負けたような気がした。二人のあいだでは、先に本音を言った方がいつも謝る役になっていた。

十四時二十四分。列が少し進む。

青い荷物札の裏には、蒼志が書いた〈次は片道で〉という文字がある。旅行の帰り、冗談で書いたものだ。依都はあの頃、それを同棲の約束だと思った。蒼志はただ、格安航空券の話をしていたのかもしれない。

十四時二十七分、依都の携帯が鳴った。写真を載せた友人だった。

「昨日の式、蒼志のお姉さんのだよ。隣にいたの、花嫁。蒼志、今日から海外赴任でしょ? 依都に会ってから行くって聞いたけど」

喉の奥が乾いた。

依都は搭乗口へ走った。蒼志は係員に券をかざすところだった。彼が振り返る。目が合った。依都は携帯を掲げたが、蒼志の画面は暗いままだ。

「鳴滝さん、搭乗をお願いします」

十四時二十九分。蒼志は一歩、ゲートの向こうへ進んだ。

そのとき依都の画面に、蒼志からの予約メールが届いた。

〈十四時二十分、いつもの青い札をつけて待つ。来たら、一緒に来てほしいって言う。来なかったら、今度こそ諦める〉

空港の回線混雑で、九分遅れていた。

依都が顔を上げたとき、ゲートの扉は閉じていた。ガラス越しに青い札だけが遠ざかる。

彼女が送った「おめでとう」は、まだ未読だった。

依都は長押しして、蒼志とのトーク履歴を削除した。