欠けたままのソーサー

 久礼紬希は、報告メールを下書きに入れたまま、喫茶「月桂樹」の閉店時刻を迎えようとしていた。

 明日の朝になれば、もっと上手な言い訳を思いつくかもしれない。取引先へ古い見積書を送ったことも、差額が小さいうちに直せることも、まだ自分しか知らない。だから今夜だけ黙っていても、と指が勝手に考える。

 店は三日後に四十二年の営業を終える。棚の古本には赤い売約札が増え、カウンターの器も少しずつ箱へ移されていた。店内に残る客は紬希ひとり。店主は音を立てず、使わない椅子をテーブルへ上げている。

 会計へ立ったとき、レジ脇の白いソーサーが目に入った。縁が三角に欠け、そこだけ淡い金色で継いである。閉店品の値札は、傷のない器と同じ額だった。

「欠けてますよね」

 紬希は確認するつもりで言った。

 店主はソーサーを明かりへ傾け、欠けた場所を隠さず見せた。それから値札を打ち直すでもなく、表示どおりの金額をレジに入れた。使える部分を、欠けた部分のせいで安くしないらしい。

 紬希は買うつもりなどなかったのに、財布を開いた。

 店主はソーサーを厚い紙で包む前に、金継ぎの場所へ小さな「割れ物」の札を重ねた。傷を隠すのではなく、運ぶ人に知らせるための札だった。包み終えると、どこが欠けているか分かる向きで袋へ入れた。

 紬希は会計台の端を借り、スマートフォンを開く。下書きの冒頭には、「念のため確認したところ」と書いてあった。まるで偶然見つけたような言い方だった。

 そこを消す。

「私が旧版を送付しました。差し替えと先方への連絡を、今夜中に行います」

 事実は短かった。短いぶん、逃げ道もなかった。

 送信すると、店主が最後の照明を落とした。金色に継がれたところだけが、袋の薄紙越しにぼんやり光った。

 失敗したことは消えない。けれど、隠さず運ぶための形にはできる。

 紬希は包みを傾けないよう両手で持ち、まだ返信の来ない画面を伏せた。明日の評価ではなく、今夜の報告を、自分で選べたことのほうを先に抱えて帰った。