欠けたハイハット
雨宮透真がギターを鳴らすたび、藤枝杏奈のハイハットは片肺みたいな音を立てた。
上下二枚のうち、上のシンバルがない。杏奈が昨日、リサイクルショップへ売ったからだ。
「家賃の足し?」と久須美礼央が訊いた。
「引っ越し代。来週には母さんのいる町へ戻る」
「初耳」
「言ったら、最後の練習が送別会になるでしょ」
古いアパートの一室を改造したスタジオは、三月末で閉まる。壁には四人分のフックがあるが、一本だけ空いたままだ。半年前にベースが何も言わず抜けてから、三人はその空白をシンセで埋めてきた。
礼央が鍵盤の電源を落としかける。
「じゃあ、もう合わせる意味ないな」
「今日で最後って、先週決めたじゃん」
「決めたのは透真だろ」
透真は返事の代わりに、歪ませたコードを一つ鳴らした。四月から市役所で働く。内定を取った日、二人には「機材を買える」と言った。本当は、土日のライブを断る言い訳ができたことに安堵していた。
「礼央はツアー行くんだろ」
「サポートだけどね。夏まで全国。戻る場所はないけど」
「それ、夢がかなったって言うんじゃない?」
「誰の曲を弾くか選べないのに?」
杏奈がスティックで、欠けたハイハットの下側だけを刻んだ。乾いた、薄い音だった。
三人は最後の曲を始めた。ベースのいない低音を礼央が左手で支え、透真が歌い、杏奈が片方だけのハイハットで拍を刻む。足りないものが多すぎて、かえって昔より輪郭のある演奏になった。
終奏で透真が予定より長くギターを伸ばす。礼央は先に手を離し、杏奈もスティックを膝に置いた。残響だけが、空のフックまで届いた。
「上、買い戻さなくていいの?」と透真が訊く。
「次の部屋、ドラム禁止」
杏奈は下側のシンバルも外したが、ケースには入れなかった。
「これは置いてく。半分だけ持ってても、音にならないから」
透真は公務員用の黒い鞄を、礼央はツアー用の小さなキャリーを持って出た。杏奈は最後に鍵を閉めた。
暗い部屋の中央で、片方だけのハイハットが、誰にも踏まれないペダルの上に傾いていた。