死亡広告を組まない夜
昭和二十九年、弓削清一は夕刊紙の植字工だった。
鉛の活字を拾い、記事を左右逆に組む。
町の結婚も倒産も死亡も、彼の指を通って紙になった。
葛西寿々が余命三か月と告げられた春、最初に頼んだのは自分の死亡広告だった。
「氏名、享年、葬儀場。今のうちに組んでおけば、清一さんが困らないでしょう」
「組まない」
「仕事なのに」
「おまえを過去形にする活字は拾えない」
寿々は新聞販売店で働き、毎晩輪転機の音を聞きに来た。
二人は秋に祝言を挙げる予定だった。
病気が分かったあとも、清一は予定を変えなかった。
「白無垢を借りよう」
「三か月後には着る人がいません」
「医者の見立ては外れる」
「新聞は事実を書くんじゃないの?」
「願望欄を新設する」
寿々は笑った。
だが清一が婚礼広告の見本ばかり組むのを見て、ある夜、工場の電源を落とした。
暗闇で、活字の棚だけが月明かりを反した。
「私、町を離れます」
「どこへ」
「海辺の療養所」
「一緒に行く」
「来ないで」
清一が何か言う前に、寿々は続けた。
「あなたは毎朝、私がまだ息をしていることを号外にする。死んだら、その日から一行も組めなくなる」
「それでもいい」
「私は嫌です。私の死を、あなたの仕事の終刊日にしたくない」
二人は初めて大声で喧嘩した。
寿々は泣き、清一は活字箱を蹴った。
床へ落ちた鉛の文字が、ばらばらの音を立てた。
翌朝、寿々は療養所へ発った。
駅で清一は紙包みを渡した。
中には活字で刷った小さな紙があった。
〈葛西寿々 存命〉
「毎日一枚、刷って」
「何枚必要?」
「三か月分」
「足りなくなったら?」
「追加を注文します」
二人は笑った。
汽車が出ると、清一は手を振り続けた。
寿々から届く葉書は次第に短くなった。
九十二日目、便りは途切れた。
新聞社へ死亡広告の原稿が届いた。
清一は同僚へ頭を下げ、植字を代わってもらった。
自分の指では、どうしても彼女の名を逆さに拾えなかった。
その夜、工場へ一人残り、最後の〈存命〉を刷った。
日付は入れなかった。
翌日の新聞に寿々の死亡広告は載った。
町の人々はそれを読んで、彼女の死を知った。
清一の机には、事実ではなくなった一枚が残った。
〈葛西寿々 存命〉
新聞は一日で古くなる。
けれど清一は、その誤報だけを生涯捨てなかった。
愛した人と別れたあとも、彼女が自分の仕事を終わらせずに残してくれた証だった。