死蛾の婚礼
死蛾に名前を食べさせると、死はその名の持ち主を迎えに来る。
白い蛾が、婚礼卓の砂糖壺で羽を震わせていた。クェラの親友イヴェンは花嫁衣装のまま、床に膝をついている。胸元には黒い痣。正午の鐘が鳴れば、花婿の一族にかけられた古い呪いが、最初の花嫁を殺す。
「私の名を書いて」
イヴェンは震える指で紙片を差し出した。
クェラは受け取らなかった。死蛾は一度だけ名前を食べる。誰か別の名を与えれば、花嫁は助かる。その意味を、二人とも知っていた。
宴席には親族が百人いたが、蛾を見ても誰も立たなかった。名は命より軽いと語る人ほど、自分の名を書いた紙には触れない。
「あなたは来月、叔母になるのよ」
クェラが言うと、イヴェンは腹を隠すように手を当てた。まだ誰にも告げていない命だった。
「だからって、あなたが代わる理由にはならない」
「理由ならある。あの子に、あなたの焼く固いパンを食べさせたい」
「そんな理由で死なないで」
「じゃあ、もっと立派な理由を考える時間をちょうだい」
クェラは笑い、卓上の招待状を裏返した。羽根ペンを取る。書き慣れた自分の名が、今日は妙に他人行儀だった。
クェラ。
母がつけた名。港の酒場で百回呼ばれた名。失恋した夜、イヴェンが朝まで呼び続けてくれた名。
紙片を折ると、蛾が寄ってきた。
「待って」
イヴェンがクェラの手首をつかむ。「死ぬのが怖くないの?」
怖い。明日の朝に髪を洗えないことも、返していない本があることも、好きだった人に最後まで好きと言えないことも。何より、自分の名を知る者たちの口に、過去形が宿るのが怖い。
けれど、恐怖は差し出すものではない。差し出すのは名前だ。
「私が怖いままでも、あなたは生きられる」
クェラは紙片を砂糖壺へ落とした。
白い蛾は文字の上に降り、最初の一画をかじった。インクが粉砂糖のように崩れる。正午の鐘が鳴り始めた。
一音目で、イヴェンの胸の痣が薄くなった。
二音目で、蛾の羽に黒い文字が浮かんだ。
三音目を待たず、クェラは親友の頬に触れた。
「あなたの子に、私の名はつけないで」
最後の一文字が、蛾の口の中へ消えた。