母の冬服

 海老沢冬佳は、母から短いメールを受け取った。

〈今週、帰ってきて。お父さんには言わないで〉

 翌日の夕方、冬佳は新幹線を乗り継いで実家へ着いた。

 出迎えた父は驚いたあと、すぐに笑った。

「母さんなら、今朝、伯母さんの家へ行ったぞ」

 玄関には母の靴があり、杖も薬も置かれていた。父は「迎えが来たから」と説明した。台所は塩素系洗剤の匂いが強く、勝手口の前だけ床板が濡れている。

 冬佳は母へ電話した。

 呼び出し音は聞こえなかった。

「向こうは山だから、圏外なんだろう」

 父は鍋を火にかけ、昔と同じように夕食を作った。会話は天気と仕事の話だけだった。母から呼ばれた理由を尋ねても、「年を取ると寂しくなる」と笑う。

 翌朝、父は大きな車輪付きの旅行鞄を玄関へ運んだ。

「母さんの冬服だ。伯母さんの家へ行く途中で預けてくれ」

「直接送ればいいでしょう」

「壊れ物がある。宅配は信用できん」

 持ち上げると、服とは思えないほど重かった。

 父は体重計を持ってきて、鞄を載せた。

「五十一・八か」

 ぽつりと言い、すぐに付け足した。

「ずいぶん詰めたな」

 五十一・八キロは、母が健康診断のたび気にしていた体重だった。

 駅までの車中、父は何度も「途中で開けるな」と念を押した。伯母の住所を聞くと、紙に書いて渡したが、町名しかなかった。

 新幹線が動き出してから、伯母へ電話した。

『お母さん? 来るなんて聞いてないわよ』

 冬佳は父から渡された紙を開いた。

 町名の下に、小さく〈河川敷、旧資材置場〉と書き足されていた。

 そのとき、旅行鞄の中で振動音がした。

 一度止まり、また鳴った。

 母の携帯電話の着信音だった。冬佳が子どものころ好きだった歌で、母は十年以上変えていない。

 冬佳のスマートフォンに、家族共有アプリの通知が出た。

〈母の端末が近くにあります〉

〈最終計測体温 四・三度〉

 向かいの乗客が鼻をすすった。

「保冷剤、漏れてませんか。何か匂いますよ」

 鞄の車輪の下から、薄い赤色の水が床を伝っていた。

 父からメールが届いた。

〈着いたら連絡しろ〉

〈母さんを一人にするな〉