母の進路希望票
六十四歳の母が、夜間大学の入学案内を持ってきた。
「天文学を勉強する」
娘は思わず赤ペンを手にした。
「週三回、帰りは十時。膝も悪いのに」
「駅から送迎バスがある」
「学費は?」
「四年間分、貯めた」
「今さら卒業して、何に使うの」
「星を見る」
母は即答した。
娘は教師だった。毎年、生徒の進路希望票へ「本人の意思を尊重」と書いている。そのくせ母の話になると、危険、費用、年齢を並べた。
「心配してるの」
「知ってる。昔の私と同じ顔だから」
母は古い紙を出した。十八歳の娘が提出した進路希望票だった。
第一希望、舞台照明の専門学校。
保護者意見欄には、母の字でこうある。
〈不安はありますが、本人が調べて決めた道です。失敗した場合も、本人と相談します〉
「これ、まだ持ってたの」
「あなたは結局、別の仕事を選んだ。でも、選び直すところまで含めて、あの進路だったと思ってる」
「だから私も賛成しろって?」
「賛成はいらない」
母は入学手続きの用紙を広げた。
「緊急連絡先になってほしい。許可をもらいに来たんじゃない」
娘は赤ペンを置いた。
母が自分を育てた年月は長い。だから母の決定に口を出すことを、恩返しのように勘違いしていた。守られる側と守る側が入れ替わったのだと思っていた。
けれど母は、子どもに戻ったわけではない。
「ひとつだけ条件」
「だから許可は――」
「初回の観測実習、私も連れていって。星座が三つしか分からない」
母は笑った。
「生徒として?」
「同級生は無理。見学者」
入学式の夜、二人は大学の屋上に立った。望遠鏡の調整に手間取る母へ、娘は何度も手を出しかけ、そのたび引っ込めた。
「分からないなら聞いて」
「分からないうちは、自分で触りたい」
やがて母が接眼部を譲った。
「見て」
小さな輪を持つ土星が、暗闇に浮かんでいた。
「どう?」
「思ってたより遠い」
「当たり前でしょう」
「でも、見える」
帰りの送迎バスで、母は学生証を娘へ見せた。
「保護者欄がないの」
「大学生だからね」
「少し寂しい?」
「少し」
娘は正直に答えた。
「でも、緊急連絡先は私」
「それは頼りにしてる」
頼られることと、決めることは違う。
娘はようやく、母の進路希望票を赤ペンなしで受け取った。