母は午前二時に会いに行く
汐瀬茅花は、深夜の台所で母の電話を盗み聞いた。
「家族が寝たら、いつもの場所へ行く。あの人も待ってる」
少し間があり、母は声を落とした。
「朝まで一緒。お父さんには絶対言わないで」
茅花は水も飲まずに自室へ戻った。
翌朝、兄へ相談する。
「母さん、浮気してる」
「証拠は?」
「午前二時に会いに行く。朝まで一緒」
「相手は?」
「“あの人”」
「情報量が刑事ドラマの予告編だな」
兄妹は父へ言うべきか議論した。
「早く伝えないと」
「でも父さん、豆腐より崩れやすい」
「最近、筋トレしてる」
「心の話だ」
「じゃあ現場を押さえる」
「家族が探偵になると、たいてい食卓が終わるぞ」
その夜、母は黒い服へ着替え、長靴を履き、懐中電灯と双眼鏡を鞄へ入れた。
兄が青ざめる。
「完全に密会装備だ」
「双眼鏡は何に使うの」
「遠距離恋愛?」
「近くへ会いに行くのに?」
二人は母を尾行した。母は海岸へ向かい、防波堤の陰で年配の男性と落ち合った。
男性が言う。
「今夜こそ来る」
母がうなずく。
「去年からずっと待ってたものね」
「ご主人には?」
「内緒。あの人、こういうの苦手だから」
「見つけたら二人だけの秘密に」
「ええ。朝まで離れないわ」
兄が震える声で言う。
「決定的だ」
茅花はスマートフォンを構えた。
「写真を撮る」
「父さんへ見せるの?」
「まず母さんに説明させる」
「冷静だな」
「手が震えて録画になってるけど」
二人が飛び出そうとした瞬間、母と男性が同時に砂浜を指さした。
「来た!」
暗闇から、大きなウミガメがゆっくり上がってきた。
母は小声で歓声を上げる。
「三年ぶり。背中の傷、同じ個体だわ」
男性は腕章を見せた。〈夜間産卵調査員〉。
母が振り返り、物陰の兄妹を見つけた。
「何してるの?」
茅花は録画を止めた。
「その、家族の生態調査」
母が笑った。
「お父さんには内緒よ。結婚記念日に、この子の写真を贈るの。昔ここでプロポーズされたから」
朝まで一緒だった「あの人」は、人ではなかった。甲羅には、家族の思い出だけが刻まれていた。