水槽を空にしない

朔良が姉の美佐を呼んだのは、重い水槽を運ぶためだった。

別れた恋人は衣類もゲーム機も持っていったのに、グッピーを六匹置いていった。「朔良のほうが懐いてるから」というメッセージだけ残して。

「魚は懐かない」

美佐は検索画面を見ながら言った。動物を飼うことを、責任を増やす趣味だと思っている人だ。

「知ってる」

「じゃあ、どうするの」

「水ごと捨てたい」

朔良が言うと、美佐は初めてスマートフォンから顔を上げた。

水槽の中では、尾びれが薄い布のように揺れている。恋人と選んだ流木、二人で敷いた白い砂。どれも腹立たしいのに、魚だけは何も知らない。

美佐は慰めなかった。代わりにホームセンターへ行き、ふた付きのバケツと酸素の出る錠剤を買ってきた。

「私の職場の受付に熱帯魚を飼ってる人がいる。引き取れるって」

「勝手に決めたの?」

「捨てるって言った人に決定権ある?」

「あるよ。今は私の魚だから」

「じゃあ、自分で電話して」

朔良はむっとしながら電話をかけた。相手は水温と匹数を聞き、明日の朝なら受け取れると言った。通話を切ると、美佐は網を差し出した。

「捕まえるの、私には無理」

「魚が怖いの?」

「急に動くものが嫌い」

二人は一匹ずつバケツへ移した。朔良が網を持ち、美佐が水槽の角へ下敷きを差し込んで逃げ道を狭める。意見は合わなくても、手順は合った。

最後の一匹がなかなか入らず、朔良の腕に水が伝った。美佐はタオルを肩へ掛けたが、「大丈夫」とは言わなかった。

空になった水槽から砂をすくう。流木は燃えるごみ、ライトは小型家電、ガラスは粗大ごみ。美佐が自治体の分別表を読み、朔良が袋へ入れた。

翌朝、二人でバケツを車の後部座席に固定した。美佐は急ブレーキを避けるため、いつもよりゆっくり走った。

引き取り先で六匹が新しい水槽に放たれると、朔良は泣かなかった。ただ、空のバケツを持った。

美佐も反対側の取っ手を握った。

「これは持てる」

「魚より重いよ」

「急に動かないから平気」

二人は同じバケツをぶつけないよう、歩幅だけをそろえて駐車場へ戻った。