治癒台帳の最後の頁
野戦病院には、奇妙な台帳が一冊あった。
負傷兵の名ではない。聖女セレフィの治癒回数が、朝から晩まで刻まれている。百回を下回れば手首の呪印が焼け、眠ることも食べることも許されない。
補給官のグランツが赴任した日、台帳は九十九で止まっていた。
「あと一人だ。早く治せ」
軍医長は、かすり傷の将校を寝台へ押し込んだ。セレフィは立っているのもやっとなのに、反射的に手を伸ばす。手首の数字が赤く光った。
グランツはその腕をつかまず、台帳を閉じた。
「本日の治療は終了です」
「補給官ごときが口を挟むな。この聖女は軍の備品だ」
軍医長は最後の頁を開いた。所有契約が綴じ込まれている。そこには治癒一回ごとに命が削られることまで、小さな文字で記されていた。
「なら、備品台帳の規則で処理します」
グランツは腰の短剣を抜いた。
セレフィが身をこわばらせる。所有者を軍医長から補給官へ変える儀式だと思ったのだろう。だが刃は彼女にも印にも触れない。
短剣は、契約を縫い留めた黒い糸だけを切った。
頁が台帳から滑り落ちる。
「綴じられていない契約に効力はない!」と軍医長が叫ぶ。
「違います。最初から人間を備品欄へ綴じる効力などない」
グランツは契約を薬湯の釜へ落とした。紙は溶け、黒い文字が泡となる。セレフィの手首から数字が一つずつ消え、最後に零すら消えた。
彼女は崩れるように座った。
「百人目を……」
「治さなくていい」
「では私は、何をすれば」
「まず食事を。次に眠る。明日は好きに決めてください」
三日後、撤退命令が出た。敵軍が迫り、グランツは患者を荷車へ乗せる。治癒術を使える者は一人もいない。だから最後尾に残るつもりだった。
「補給官、護衛隊は先に逃げました」
「予定どおりです。帳尻は私が合わせます」
門を閉めようとしたとき、白い袖が横から伸びた。
眠り、食べ、顔色を取り戻したセレフィが、一本の包帯箱を抱えて立っていた。
「台帳は燃えましたよ」
「知っています」
「治療数を命じる者もいません」
「だから来ました」
彼女は自分の手で包帯箱を荷車に置き、グランツの隣へ立つ。
「今日は何人治すか、私が決めます。あなたが最後尾なら、私はその一歩前にいる」
「それは忠誠ですか」
「いいえ。選択です。何度でも選び直せるほうの」
セレフィの手首は白いままだった。
それでも彼女の掌には、命令された百回より強い光が、自分の意思で灯った。