波形の中の咳払い

宇田川は、音声番組から余計な音を消す仕事をしている。

息継ぎを短くし、机に触れた振動を削り、空調の低い唸りへ細い線を引く。編集画面には声が青い波形になって並び、黙った時間だけが平らだった。

午前零時四十六分。部屋の照明はモニターの白さだけ。外では雨が室外機の天板を一定に叩き、パソコンの冷却ファンが回っては弱まる。宇田川は二十分のインタビューを、もう三時間編集していた。

話し手は、町の小さな書店で働く女性だった。本の魅力より、閉店後に棚を拭く順番や、レジ下へ落ちる紙の埃について穏やかに話している。

十二分三秒、女性が一度だけ咳払いをした。

小さく、遠慮がちに。すぐ「失礼しました」と続き、聞き手も「大丈夫です」と答えた。

宇田川は咳払いの波形を選択した。いつもなら削除する。前後をつなげれば、最初から何もなかったようになる。

削除キーへ指を置いたまま、止まった。

壁の向こうで、隣人の椅子が一度だけ床を擦った。続いて給湯器が動き、水が配管を走る。顔も名前も知らない人が、まだ起きているらしい。音はすぐに消え、雨とファンだけに戻った。

宇田川は咳払いを残した。その代わり、直後の長すぎる沈黙だけを少し短くした。人がそこにいた証拠を整えすぎると、声まで商品になる気がした。

書き出しを始める。進捗の円が回り、三十二、四十九、七十八と数字が増える。書き出し中、編集画面の波形は触れられない。宇田川は椅子の背へ体を預けた。

公開予約を終えた直後、確認用ページの再生回数が一になった。制作担当者が聞き始めたのだろう。十二分三秒まで到達するには、まだ時間がかかる。

宇田川は結果を待たず、モニターを消した。黒くなった画面へ自分の輪郭が薄く映る。パソコンのファンが止まり、雨音が前へ出た。

机の端には、今日一度も口をつけなかった水があった。宇田川が飲むと、ペットボトルが小さく鳴る。その音も誰にも届ける必要はなく、消す必要もなかった。

波形の中には咳払いが残っている。誰かが気づくかは分からない。それでよかった。今夜の部屋にも、削らなくていい小さな音があると思えた。