浮かぶ角砂糖
喫茶「汽笛」の店主、古宇田綴は、閉店後の床に寝そべる男を見下ろしていた。
「何をしてるんです」
「落としたコンタクトを探してます」
「眼鏡をかけてますよね」
「これは伊達です」
「レンズ入ってますよ」
「では、落としたのは自尊心です」
男は宅配便の矢萩鉱平だった。閉店間際に豆の箱を運び込み、伝票の数が合わないと騒ぎ、倉庫を三往復した末、店内に取り残された。自動扉は施錠済み。綴が裏口の鍵を探すあいだ、鉱平は「急いでないので」と言いながら十五回時計を見た。
「コーヒーでも飲みます?」
「勤務中です」
「もう配達先は全部閉まってます」
「では業務外ということで」
綴が出したブレンドに、鉱平は角砂糖を一つ落とした。
沈まなかった。
白い立方体は水面の木片のように浮き、スプーンで押しても、くるりと逃げた。
「これ、砂糖ですか」
「たぶん」
「発泡スチロールでは」
「味見します?」
「仕事で異物混入の報告書を書いたことがあるので遠慮します」
二個目も浮いた。三個目は一個目の上に乗った。
鉱平は真剣な顔でカップを傾け、綴は笑いをこらえた。閉店後、この店の角砂糖は、ときどき頑固になる。綴は理由を考えないことにしていた。考えるより、相手の顔を見るほうが早い。
「何か言い忘れてませんか」
「砂糖メーカーへの苦情?」
「私に」
「鍵の管理を徹底してください」
「ほかに」
「豆の箱、重かったです」
「ほかに」
「三往復させられました」
「数え間違えたのは矢萩さんです」
「それを今言います?」
角砂糖は三段のまま揺れていた。
鉱平はカップを置き、ため息をついた。
「……さっき、箱を落としかけたとき、支えてくれましたよね」
「はい」
「腰、やってません?」
「少し」
「俺が伝票を見間違えたせいです」
「はい」
「それで、その。ありがとうございました。あと、すみません」
三つの角砂糖が、同時に沈んだ。
鉱平は椅子から立ち上がった。
「見ました?」
「何を?」
「今の!」
「砂糖が溶けただけでしょう」
「三段で?」
「甘いものは、だいたい話が早いんです」
裏口の鍵は、綴のエプロンのポケットに最初から入っていた。
外へ出た鉱平は、振り返って深く頭を下げた。今度は砂糖がなくても、きちんと言えた。
翌週から豆の箱には、「腰に注意」と大書きされた赤いシールが貼られるようになった。