海のない町の津波警報

 海から二百キロ離れたこの町で、津波警報が鳴ったのは、母の命日の夜だった。

『大津波警報。直ちに高い場所へ避難してください』

 午前一時、山腹のスピーカーが叫んだ。誤作動だろうと父は言った。窓の外には、乾いた田んぼと黒い山しかない。

 母は十年前、海辺の町で津波にさらわれた。遺体は見つからなかった。

 放送は三分おきに繰り返された。

 三度目から、避難先の案内が変わった。

『高台ではありません。川へ向かってください』

 父の顔色が変わった。

 町の中央を流れる川は、夏になると子どもでも歩いて渡れるほど浅い。けれど外を見ると、近所の人々が傘も差さず、川の方角へ歩いていた。誰もが写真立てや古い衣服を胸に抱いていた。

「呼ばれてるんだ」

 父がつぶやいた。

「母さんが、帰ってきた」

 私は父の腕をつかんだ。すると防災無線から、母の声がした。

『あなた。美咲。水は冷たくないよ』

 十年ぶりに聞く声だった。優しくて、少し息が漏れる話し方まで同じだった。

 父は泣き笑いを浮かべ、私の手をほどいた。

「一目だけだ」

 玄関を開けると、潮の匂いが流れ込んだ。

 道路は乾いているのに、歩いていく人々の足跡だけが濡れていた。私は父を追い、橋まで走った。

 川底には水がなかった。

 それでも人々は岸辺に並び、暗い底へ向かって手を振っていた。やがて一人ずつ、階段を下りていく。足首も膝も濡れないまま、腰、胸、顔の順に闇へ沈み、見えなくなった。

 父の番が来た。

 川底から母の白い手が伸びた。

「美咲も来い」

 父は笑った。

 私は首を振った。母の手がもう一本伸び、子どものころのように私の名を呼んだ。

 そのとき、町のスピーカーが突然、知らない男の声に戻った。

『警報を解除します。帰還者は、各家庭一名までです』

 父の笑顔が凍った。

 川底から無数の手が現れ、父の腕、肩、顔をつかんだ。母の手だけが私を押し戻した。

 翌朝、川はいつもどおり浅く流れていた。

 町では四十七人が行方不明になった。役場は機器の異常を否定し、放送記録にも津波警報は残っていないと言った。

 父のいない家へ戻ると、留守番電話が点滅していた。

 再生すると、波音の向こうで母が言った。

『次は二人で帰すからね』

 その夕方から、防災無線の時報は一日一分ずつ早くなっている。