海へ落ちた三百ミリ

水鏡ヶ丘朔綾の防湿庫から、望遠レンズが一本消えていた。

三百ミリの白い鏡筒。野鳥撮影のため十年貯金して買ったものだ。友人の霜月ヶ森拓紀は、前から「子どもの運動会に貸して」と頼み、朔綾が断るたび、「使わない日くらい友達へ回せ」と不満を言っていた。

その夜、拓紀のSNSに港の写真が上がった。

〈プロ機材で船上撮影。貸出サービス始めます〉

朔綾が連絡すると、拓紀は笑った。

「一日借りただけ。運動会より金になる使い方をしてやったんだ。レンタル料は今度飯でも奢るよ」

翌日、レンズは返ってこなかった。

船上で客へ貸していた最中、海へ落としたという。拓紀は「中古なんだから十万円で十分」と言い、同型の安い模造品を返そうとした。

朔綾はレンズの登録アプリを開いた。

製造番号、購入記録、保守履歴はすべて自分名義。海へ落ちる直前に撮られた画像は、カメラからクラウドへ自動転送されていた。拓紀が客へ二万円で貸し、ストラップを外したまま手渡す場面も、同乗者の動画に残っている。

レンズの新品価格は百八十万円。しかし損害はそれだけではなかった。翌週、朔綾は自然保護財団から希少鳥の繁殖記録を委託されており、代替機材の緊急レンタルと撮影延期が必要になった。

拓紀は言った。

「仕事なら財団に買ってもらえよ。友達同士で弁護士なんて大げさだ」

財団の法務担当が同席した。

「当財団の委託機材ではありません。朔綾さんの私物を、あなたが無断で営利利用し、失った案件です」

船会社の乗船記録、決済履歴、クラウド画像が揃い、拓紀はレンズ代、代替機材費、撮影延期損害を賠償することになった。無許可の有料レンタルについて、船会社からも今後の利用を断られた。

拓紀は最後に、朔綾へ自分のカメラを譲るから減額してほしいと頼んだ。

「それ、分割払い中で所有権が販売店にあるよね」

調停委員が合意書へ押印し、拓紀の給与口座から毎月の支払いが始まる。

クラウドの最後の写真に〈所有者・水鏡ヶ丘朔綾/使用者・霜月ヶ森拓紀〉と証拠番号が付いた瞬間、友達だから無料と言った男は、海にないレンズへ毎月レンタル料より高い金額を払い続けることになった。