海まで十九分
小笠原蒼依が開いていたのは、海辺の町の短期移住申込書だった。
滞在期間は三か月。家具付きの空き家に住み、期限が来れば退去する。定住の約束も、成功の条件もない。ただし申し込みは今夜までだった。
蒼依の机には、二枚の絵はがきがある。一枚は今住む街の夜景。もう一枚は、説明会でもらった灰色の海。観光写真のような青ではなく、風に波が崩れている冬の海だった。
二十九歳の誕生日に、友人から「次の十年はどこで暮らしたい?」と聞かれた。蒼依は答えられなかった。今の街が嫌いではない。行きつけの喫茶店があり、曲がる角を考えずに歩ける。けれど慣れていることと、選び続けていることの違いが分からなくなっていた。
海辺へ行けば人生が変わる、とは思っていない。三か月後、寒さと不便さに負けて戻るかもしれない。知り合いのいない町で、今より孤独になるかもしれない。
申込書の最後には、希望理由を書く欄があった。
蒼依は何度も「新しい自分を見つけたい」と書きかけて消した。そんな大きな目的を背負わせたら、海辺の町にも自分にも失礼な気がした。
代わりに、〈朝の海まで歩いてみたいから〉と書いた。宿舎から海までは徒歩十九分。それだけなら、できるかもしれない。
送信ボタンの横で、現在の住所が自動入力されていた。蒼依は一度そこを見てから、申し込みを送った。
翌朝、郵便局で転送届を受け取る。転送期間の欄には「三か月」と書いた。永住でも逃亡でもない。戻る可能性を残したまま出ていく。
説明会の担当者は、町には冬季休業の店が多く、最終バスも早いと念を押した。蒼依はその注意書きに赤線を引いた。美しい海だけを選ぶのではなく、閉まった店の前を歩く夕方も含めて申し込むのだと思うと、画面の灰色が少し現実の色になった。
三か月分の家賃を計算すると、帰ってきたあとの貯金は心細い。それでも蒼依は、安心が減る数字もノートの余白へ書き残した。
蒼依は二枚の絵はがきを重ね、灰色の海を上にして机の端へ置いた。