消えない赤線

報告書から赤線を消せ、と弓削田篤臣参事官は言った。

錦織麻由監察官の画面には、家庭内暴力相談の検証結果が開かれている。三か月前、妻が交番へ逃げ込み、「夫は警察官で、拳銃を見せて殺すと言った」と訴えた。翌朝、相談は本人の希望で取り下げられ、その一週間後、妻は自宅浴室で死亡した。事故死として処理されている。

監察の結論案は、担当巡査の聞き取り不足。だが麻由は、相談記録の旧版を復元していた。

画面右側に変更履歴が並ぶ。

――拳銃を所持。緊急性・高。

――加害者は警備部所属。

――保護命令を希望。

三行とも削除者は「YUGE-ADM」。弓削田の管理者アカウントだった。削除時刻は妻が交番を出る十九分前。旧版の末尾には、担当巡査が入力した『保護先確保済み』の文字まであった。削除がなければ、彼女は自宅へ戻されなかった。

「共有端末だ。誰でも使えた」

「参事官の指紋認証が必要です」

「認証したまま席を外した。それだけだ」

弓削田は椅子にもたれた。妻の夫は警備部の特殊班員で、弓削田の元部下だ。事件化すれば、拳銃管理と相談保護の両方が崩れる。

「担当巡査は、削除後の記録しか見ていません」

「だから指導不足だ。若い者を辞めさせる必要もない。訓戒で終える」

「死んだ人の申告も、終わらせるんですか」

「組織は、一つの正しさで動いていない」

弓削田は机上の決裁予定表を指した。

「この赤線を外せば、君は来月、主任監察官だ。残せば、担当巡査も、相談係も、警備部も、私も調べ直しになる。君が守りたい正義のせいで、何人の生活が壊れる?」

麻由は答えず、変更履歴の印刷を開始した。プリンターから白い紙が吐き出され、削除された三行だけが赤く残る。

弓削田が電源コードへ手を伸ばした。

麻由は先に報告書の版管理を固定し、編集権限を「監察室のみ」から「公安委員会閲覧可」へ変えた。

「生活を壊した順番を書きます」

画面に確認窓が出る。

――変更履歴を含めて提出しますか。

麻由は「含める」を選び、赤線を消さないまま決裁へ回した。