消した告白の夫

十七歳の薄井叶芽は、全校集会の壇上で同級生に告白し、マイク越しに振られた。その映像は三十年後まで同窓会の定番だった。五十歳を前にした叶芽は、酔った勢いで過去修正AIに頼んだ。

「好きです」を「ノートを返して」に置き換える。それだけだった。

目を開けると、隣で見知らぬ男が歯を磨いていた。正確には、よく知る顔だった。あの日、叶芽を振った男だ。彼は自然に「おはよう」と言い、叶芽の分のコーヒーを淹れた。壁には二人の結婚写真、冷蔵庫には銀婚式の予約票。棚には、喧嘩のたびに書いたらしい謝罪メモが束になっていた。幸福だけの結婚ではなかった。別居届も一度出し、夫の父を看取り、互いの仕事を諦めかけ、それでも同じ家へ戻った年月だった。叶芽にはその痛みも和解もない。だからこそ、簡単に偽物とは呼べなかった。

告白で騒ぎにならなかった世界では、彼の方から後日、叶芽を誘ったらしい。二人は結婚し、二十五年を暮らした。だが叶芽が覚えているのは、独身で世界中を撮影して回った人生だった。砂漠の夜も、南極の朝も、この家には一枚もない。

夫はすぐ異変に気づいた。

「君、僕のことを知らないんだね」

叶芽は正直に話した。過去修正は二十四時間以内なら取り消せる。そうすれば、この夫婦の二十五年は消え、自分の旅が戻る。

夫は怒らなかった。ただ、食器棚から欠けた茶碗を出した。新婚旅行で買い、何度も捨てようとして、二人とも捨てられなかったものだという。

「僕の二十五年は、君の恥ずかしい一分より軽い?」

叶芽には答えられなかった。自分の人生を取り戻すことは、目の前の男から人生を奪うことでもあった。

日没前、彼女は取消画面を閉じた。そして離婚届を二枚印刷した。

「消す代わりに、終わらせたい。あなたの時間を、本当にあったものとして」

夫は少し笑った。

「三十年前は君が振られた。今度は僕の番か」

二人は最後の夕食を食べた。叶芽は知らない思い出を聞き、夫は存在しない旅の話を聞いた。

過去は直せても、別れ方までは自分で選ぶしかなかった。