消し跡を食べる天神さま
閉校前の夜間中学で、教師は黒板を一人で消していた。
生徒数が減り、来年度から隣町の学校へ統合される。最後の授業まで、いつも通り進めるつもりだった。
黒板消しを叩くと、粉の中から小さな烏帽子の神様が現れた。
学生服ほどの黒い衣を着て、手には梅の枝を持っている。
「消された文字だけが、わしの食事じゃ」
天神さまは、黒板に書いて消した字しか食べられないらしい。
教師が試しに「漢字」と書いて消すと、神様は粉をひとつまみ食べた。
「味がない」
「字ですよ」
「迷いのない字は腹にたまらん」
翌日の授業で、教師は生徒へ質問を出した。
大人の生徒たちは、間違いを恐れてなかなか書かない。
教師は正解を丁寧に示し、誤答をすぐ消してきた。
授業後、神様は消し跡を食べながら言った。
「今日いちばん旨かったのは、『帰』を書きかけて消した字だ」
それを書いたのは、外国から来た年配の生徒だった。
作文の題は「卒業後にしたいこと」。
生徒は「国へ帰る」と書きかけ、「町で働く」に直した。
教師は翌日、その理由を尋ねた。
生徒は長く黙り、
「帰りたい。でも、帰ったら家族に成功した人と思われる。失敗したとは言えない」
と話した。
別の生徒は「高校へ行く」と書いて消していた。
年齢を笑われるのが怖い。
もう一人は、統合先へ通う交通費がなく、退学を考えていた。
教師は、閉校を惜しむ会を開く予定だった。
しかし生徒たちが必要としているのは、思い出を飾ることより、次の通学や進路を一緒に考える時間だった。
黒板へ、全員が「まだ言えないこと」を一つずつ書いた。
読まれたくない人は、自分ですぐ消す。
神様は消し跡を食べ、何も言わなかった。
翌週、教師は役所へ交通費補助を相談し、進学先へ見学を申し込んだ。
帰国を迷う生徒には、結論を急がず両方の手続きを調べた。
閉校の日、黒板に校名を書いた。
消そうとすると、天神さまが首を振る。
「それは残しておけ。わしが食うのは、消したことを恥じる字ではない」
教師は校名の下へ、小さく書いた。
「続きは別の場所で」
その一文だけ消すと、神様は満足そうに食べ、梅の香りを残して消えた。
間違いや迷いを消すことはできる。
けれど消した跡にも、その人が一度進もうとした方向が残っていた。