湯気だけが出勤する
水城岳人の家では、毎朝六時になると湯気だけが出勤する。
山あいの旧駅舎に置いた三つの薬缶が、時計塔の鐘を合図に火へ掛かる。晴れなら眠気を払う薄荷茶、雨なら関節を温める生姜茶、冷え込めば喉を守る梨の煎じ茶。屋根の風見鶏が天気を読み、真鍮の匙が葉を量り、魔法の茶漉しが旅人用の瓶へ注ぐ。瓶は朝一番の無人貨車に載り、麓の店へ届く。
岳人は、起きなくていい。
以前勤めていた王都駅の給茶室では、始発より二時間早く出た。茶色の制服は腹のあたりが台に擦れて白くなり、靴底には熱湯を浴びて縮んだ跡が残っている。退職した今も、携帯水晶には『団体客百名追加』『欠員発生、至急』の表示が十二件、未読で張りついていた。
七時半、枕元の小さな切符鋏がぱちんと鳴る。
《薬茶定期便、発送完了。今週分の契約料を受領しました》
岳人は片目だけ開けて金額を見た。一週間分の食材と薪、それに温泉宿へ一泊できる程度。十分だった。十分という言葉を、自分で決められることが何より贅沢だった。
直後、水晶が震えた。元駅長からの音声だ。
『給茶室が回らん。今日だけ始発から入れ。お前なら一人で三窓口できるだろう』
一人で三窓口。それは褒め言葉ではなく、三人雇わなくてよいという意味だった。
岳人は寝床の中から返した。
『できることと、引き受けることは別です。戻りません』
『乗客を待たせるぞ』
『人を足りないままにしたのは、私ではありません』
送信後、彼は水晶を裏返した。階下では薬缶が律儀に笛を鳴らし、貨車の扉が閉まる音がした。
旧駅舎へ来たばかりの頃は、遠くで汽笛が鳴るたび、岳人の足が床を探した。遅刻だ、窓口が開いていない、と体が勝手に急いだ。けれど今は、無人貨車が瓶を受け取るまでを寝床から聞いている。旅人は茶を飲み、店は代金を払い、誰も彼の顔色を確認しない。一杯の茶に必要なのは正しい葉と湯であって、作り手の睡眠不足ではなかった。
岳人は誰にも淹れない自分用の茶をあとで飲もうと思い、布団の中で寝返りを打った。湯気だけを送り出し、彼は二度目の眠りへ戻った。