潮が値札をさらうまで

私掠船《青鴉》の新船長エルドリクが受け継いだのは、船と借金と、ひとりの海魔族だった。

ナージェは船底の水槽に沈められ、喉元の黒真珠から銀鎖が舵輪へ伸びていた。旧船主モルガの契約書には、彼女が歌えば追い風、逆らえば肺に海水が満ちると記されている。船員たちは彼女を恐れて水槽へ近づかなかったが、水の底には、命令に逆らうたび吐いた赤い泡の跡がこびりついていた。

「真珠へ船長印を移せば、嵐にも勝てます」

港の公証人は当然のように言った。

エルドリクは契約書へ印を押さず、水槽の蓋を開けた。

「真珠を砕けば、君も傷つくか」

『分からない。試した者はいない。商品を壊す者はいなかったから』

ナージェの声は水越しに震えた。

その夜、沖でモルガの船が現れた。旧船主は遠隔命令を使い、ナージェに《青鴉》を暗礁へ導かせる。舵が勝手に回り、黒真珠が赤く燃えた。

エルドリクは操舵を部下へ任せ、水槽へ飛び込んだ。

真珠を握れば、自分の船長印を刻む場所が指に触れた。そこへ印を置けば命令を奪い返せる。だが彼は短剣の柄で、真珠の中心ではなく、銀鎖を留める小さな金具を叩いた。

一撃。

鎖が外れ、契約書の文字が一斉に海水へ流れ出す。真珠は傷つかず、所有者へ命令を返す道だけが消えた。

命令の消えた歌は喉で途切れた。ナージェは自分の声が沈黙を選べることを確かめると、水槽から海へ身を躍らせた。

追い風も消えた。《青鴉》は暗礁へ流される。船員たちは船長を罵らなかったが、誰も助かるとは思っていなかった。

そのとき、船底の下から青い光が走った。

ナージェが海中で歌っていた。命令の赤ではない、月明かりのような歌だった。波が船腹を持ち上げ、《青鴉》を暗礁の外へ押し出す。

夜明け、彼女は自分の意思で甲板へ上がった。濡れた三叉槍をエルドリクの足元へ横たえ、柄を差し出す。

「自由なら、どの海へでも行ける」

「だから選んだ」

彼女は黒真珠を引きちぎり、海へ放った。

「賃金は水夫と同じ。寝床は甲板ではなく船室。命令ではなく相談。それで雇う?」

船員たちは誰も拍手しなかった。代わりに、一番若い水夫が空いている船室の鍵をそっと差し出した。

「こちらから頼みたい」

値札を刻まれた真珠は、朝日に一度だけ光り、深い海へ沈んだ。