潮の家をほどく
浮家の町では、引っ越しの日に家を海へ放つ。
家々は太い綱で桟橋につながれ、暖流に乗って別の島へ移る。いったん切った綱は結び直せない。潮は、別れた家を二度と同じ港へ戻さないからだ。
綱解き師のゼイルは、ナユラの家の最後の綱を担当した。
幼い頃から、二人の窓は細い水路を挟んで向かい合っていた。朝は窓を三度叩いて起こし、夜はランプを揺らしておやすみを伝えた。ナユラの母の病を治すには、南の温かな島へ移るしかない。
出航の朝、家具を積んだ家は潮に引かれ、綱をきしませていた。
「早く切らないと、柱が折れるよ」
甲板からナユラが叫ぶ。
ゼイルは斧を上げたが、振り下ろせなかった。
最後の一本は〈帰り綱〉と呼ばれる。切る役目は、家に残ってほしいと最も願う者が務める決まりだった。
「ナユラ」
「なに」
「好きだ」
潮騒に消されないよう、ゼイルはもう一度言った。
「ずっと好きだった。君の家が見えなくなっても、たぶんずっと」
ナユラは泣かなかった。代わりに、いつものように片方の眉を上げた。
「いま言うの?」
「いましか、切る勇気がない」
「ひどい告白」
「知ってる」
「私も好き。だから切って」
好きなら残れ、とは言わなかった。
好きならついて来い、とも言わなかった。
ゼイルには年老いた父と、綱解き師の仕事がある。ナユラには母と、南で始める暮らしがある。二つの家を無理に結べば、潮の間でどちらも壊れる。
ゼイルは斧を振り下ろした。
綱が切れ、家がゆっくり桟橋を離れた。
ナユラは首から真鍮の鍵を外し、こちらへ投げた。鍵は海へ落ちそうになり、ゼイルの掌に収まった。
「もう扉はないぞ」
「鍵がある限り、帰る場所はあったことになる!」
家は潮に乗り、声の届かない距離へ流れていった。
夕方には屋根が水平線へ沈み、翌朝には煙突も消えた。
それからゼイルは、多くの家の帰り綱を切った。
泣く者には急がず、迷う者には潮の時刻を教えた。
腰には、どの扉も開けない真鍮の鍵を下げていた。
風の強い日、鍵は小さく鳴った。
それは帰還の合図ではない。
互いを好きだと知ったまま、別々の港へ生きていった二人の家が、いまもどこかの海にあるという音だった。