潮待ちの湯

海辺のノエラ村では、魚より真水のほうが高かった。

漁師は潮で裂けた手を洗えず、傷口に塩が残った。井戸水を風呂に使えば罰金。だから冬の浜には、魚と血と古い網の匂いが染みついていた。

領主代理ナディアは、雨の日に集会を開いた。

「屋根から流れる水を集めれば、一度の雨で浴槽三十杯分になります」

「雨が降らなきゃ空っぽだ」

「なら、空っぽの月は負担もゼロです」

彼女が示した規則は、漁に出た船へ一律で課すものではなかった。魚籠二十杯を市場で売れた船だけ、一杯分を共同の干物棚へ出す。十九杯以下、しけで水揚げなし、遭難者を捜索した船は免除。干物を売った代金で薪と濾過砂を買い、収支は港の黒板に書く。

「大漁船ばかり損じゃないか」と網元が言った。

ナディアは市場の売値を指した。

「大漁だった船ほど手の傷が多い。働いた人が翌朝も網を握れるようにする費用です。漁師ではなく、売れた魚に負担してもらいます」

若い船頭が笑った。

「魚が湯を沸かすってわけか」

その一言で空気が変わった。船大工は雨樋を曲げ、樽職人は貯水槽を組んだ。魚を出せない老漁師は、毎朝濾過砂をならした。誰も徴発されなかった。自分の船がどれだけ出し、それが何束の薪になったか、黒板で確かめられたからだ。

一月後、沖は荒れたが、浴場の貯水槽は前夜の雨で満ちていた。

赤、青、黄の三枚の札が入口に掛かる。赤は満潮前、青は水揚げ後、黄は家族の時間。船の大小にかかわらず、順番は潮の都合だけで決まる。

最初の湯に手を沈めた若い船頭が、裂けた指をゆっくり開いた。

黒板の最初の月には、魚籠六つ、薪二十三束、濾過砂三袋と書かれた。下には、免除された捜索船の名も記された。負担しなかったことを恥にしないためだ。網元はその欄を見て、自分の船から干物をもう一枚だけ吊るした。寄付欄へ名を書く代わりに『遭難者を待つ分』と記し、老漁師が黙って頷いた。港で別々だった船の都合が、一枚の板の上で初めて並んだ。

港の鐘が鳴る。出航ではない。村で初めての、「湯が沸いた」という合図だった。