潮神贈答控
【潮神贈答控・第一頁】
人より潮神ウルオへ。
干した橙皮、一袋。
願い――弟の船を無事に帰してください。
潮神より伊比井木綿へ。
白い貝殻、一枚。
返答――船は明朝帰る。願いの代価は橙の香りで足りた。
木綿は入江の塩小屋で働いていた。
供物を岩穴へ置くと、翌朝には海から返礼が届く。櫛、玻璃玉、沈没船の銀貨。やがて願いのない日にも、二人は品を交換した。
人より潮神へ。
古い詩集。
願い――なし。好きな頁に印をつけてください。
潮神より人へ。
海藻を挟んだ詩集。
返答――文字は読めない。あなたが読んだ声は好きだ。
夏の終わり、木綿は干潮の岩場で初めてウルオを見た。
濡れた髪の青年で、瞳の中に小魚の群れが泳いでいた。
二人は潮が引くたび会った。
木綿は陸の祭りを語り、ウルオは海底の夜を語った。
彼が指へ触れると、皮膚に薄く塩が残った。
翌年、村は防潮堤を築くことになった。
高潮から家々を守る代わりに、入江は閉ざされ、海水は来なくなる。
「水門を夜だけ開けて」
木綿が言った。
「私が合図する」
「一度でも大潮が入れば、村は沈む」
「では、ここに残れないの?」
「潮神は潮のある場所にしかいられない」
工事の前夜、贈答控の最後の頁が埋まった。
潮神より人へ。
塩の輪、一つ。
願い――共に海へ来てほしい。
木綿は輪を薬指へ通した。
海へ入れば、呼吸も年齢も人の名も失う。ウルオと永くいられるが、病気の母と幼い弟を陸へ残すことになる。
人より潮神へ。
塩の輪、一つ。
返答――返礼します。
願い――私を連れていかないでください。
ウルオは輪を受け取らなかった。
波が来るたび、塩は少しずつ溶けた。
「好きなのに」
木綿が言う。
「好きだから、あなたの陸を沈めない」
「私も、あなたの海を陸にしない」
夜明け、防潮堤の水門が閉じた。
入江の水位が下がり、ウルオの足元から海が遠ざかる。
彼は最後の波へ溶けた。
木綿の掌には、輪の形をした塩の跡だけが残った。
防潮堤は村を守った。
塩小屋は畑へ変わり、贈答控は村の資料館へ収められた。
最後の頁には、後年、木綿が一行だけ書き足した。
〈返礼不要と記したが、本当は一度だけ、帰ってきてほしかった〉
その願いに返答はない。
海のない入江で、紙だけがいつまでも潮の匂いを残していた。