火曜のソプラノ
二瓶千鶴は、六十八歳になって初めて、スーパーの鮮魚売り場で告白された。
「前から、あなたの声が気になっていました」
そう言ったのは、毎週火曜に鯖を一尾買う稲益清吾だった。背筋が伸び、白髪もよく整っている。千鶴は手にしていた半額のししゃもを、思わず胸に抱いた。
「まあ」
「よく響く、きれいな声です」
「そんな。レジでポイントカードを忘れたって騒いでるだけですよ」
「その張りがいい。ぜひ、私たちと一緒に」
「私たち?」
胸のときめきに、複数形が冷水を差した。
清吾は朗らかに紙を差し出した。『市民合唱団・夕映えコーラス 団員募集』とある。
「来月の文化祭でソプラノが足りなくて」
「告白じゃなかったんですか」
「こ、告白?」
「いえ。鯖の話です」
「鯖に何を告白するんです」
二人は気まずく笑った。千鶴は入団を断ろうとしたが、紙の端に「練習後、お茶会あり」と書かれているのを見つけた。
「お茶は何が出ます?」
「火曜は羊羹です」
「入ります」
それから千鶴は毎週、腹式呼吸と発声を習った。清吾は指揮者だった。褒めるときも「今の音程は実に誠実です」と、なぜか人柄のように言う。千鶴はだんだん、火曜日に鯖を買う理由が魚ではなくなっていった。
文化祭の帰り、今度は千鶴から清吾を呼び止めた。
「稲益さん。前から、あなたのことが気になっていました」
「おお」
「毎週火曜、私と一緒に歩きませんか」
「それは、もしかして」
「商店街健康ウォーキング会への勧誘です」
清吾の顔が分かりやすくしぼんだ。千鶴は少しだけ意地悪く笑い、もう一枚の紙を渡した。そこには集合時間も会費もなく、『歩いたあと、二人でお茶を飲みたいです』とだけ書かれていた。
「こちらが本題です」
「紛らわしいですね」
「お互いさまです」
翌週から、夕映えコーラスにはよく声の通るソプラノが一人増え、健康ウォーキング会には鯖好きの紳士が一人増えた。団員たちは二人を冷やかしたが、千鶴は平然としていた。
「勧誘から始まる恋もありますよ。入会後の活動内容が、少し違うだけです」