火窯のそばで眠るパン

 パン職人組合の採用試験で、門倉麦に渡された生地は、朝から一度も膨らんでいなかった。

 王都では火魔石の値が三倍になり、組合は発酵室を閉じる寸前だった。にもかかわらず職人たちは、膨らまないたび窯を熱くし、さらに魔石を足す。麦が『温めすぎでは』と口にしただけで、異界の素人が伝統を侮辱したと採用試験へ回されたのだ。

「異界の知恵とやらで、夕鐘までに二倍にしろ」

 親方ゲイルは意地悪く笑い、生地を燃える窯の真横へ置いた。見習いたちは皆、強い火ほど早く膨らむと信じていた。だが表面は乾き、酵母は熱で死にかけている。

 麦は窯から桶を離した。

「逃げるのか」

 答えず、ぬるい湯を張った大鍋に桶を浮かべる。指を入れて、風呂より少し低い温度に整えた。布をかけ、砂時計を返す。

 使った知識は一つ。酵母が元気に働くのは、熱さではなく、人肌ほどの温かさだということ。

 隣では候補者が火魔法を追加し、生地の縁を焼いてしまった。笑っていた見習いの声も、やがて止まる。

 布の下で、桶の生地がゆっくり持ち上がった。目印につけた赤い糸を越え、さらに丸く張る。夕鐘の一刻前には、最初の二倍になっていた。麦が指先で押すと、へこみは急がず戻る。窯際の生地は表面がひび割れ、押した跡がそのまま残った。

 親方は二つの桶へ手を入れた。片方は熱く乾き、片方はしっとり温かい。温度計も魔法もないが、差は手のひらだけで分かった。

 麦は生地を切り分け、窯へ入れる。焼き上がった小麦色のパンを割ると、細かな気泡がそろい、湯気と甘い香りが立った。

 ゲイルは黙って一片を噛む。外は薄く鳴り、中は指で押すと戻った。

「火魔石は何個使った」

「ゼロです。湯も、洗い場の残り湯です」

 親方は窯番へ目を向けた。毎月、発酵のためだけに消えていた火魔石の箱が積まれている。麦の方法なら、焼成前の残り湯を一度使うだけで済む。組合の会計係がその場で計算し、年間の魔石代が半分以下になると青い顔で告げた。

 麦は説明を続けず、次の桶を同じ湯へ浮かべた。今度は、組合が朝から諦めていた全量だ。

 ゲイルは採用試験の木札を裏返した。

『臨時見習い』の文字が消え、その場で『発酵室主任』に書き換えられた。