無名盤に名前を書く

私が作った歌には、名前がなかった。

動画サイトでは「room_404」という名で投稿していたし、依頼された曲には歌い手の名前しか残らない。それで困らないと思っていた。褒められても私だと知られず、嫌われても私だと分からない。安全だった。

コンテストの締切まであと二時間という夜、私は「月蝕レコード」で、透明に近い薄茶色のアセテート盤を見つけた。中央のラベルは真っ白。鉛筆で小さく「試作、一枚のみ」とあるだけだった。

「何が入っているんですか」

「分かりません」

店主は平然と言い、検盤台へ運んだ。針を落とすと、若い女の声が流れた。伴奏はピアノ一台。途中で咳をし、歌詞を間違え、二番の前に笑ってしまう。それでも声は、隠れる場所を探していなかった。最後に誰かが遠くから「もう一回」と言い、録音は切れた。

「歌手名は?」

「書かれていません」

私は少し安心し、少し腹が立った。こんなにまっすぐ歌った人の名が、どこにもない。

盤を買うと言うと、店主はレジ横から白い油性鉛筆を出した。値札を剥がすためだと思ったが、彼は鉛筆を私の側へ置き、空白のラベルを上にして盤を止めた。

「管理上、購入者名を控えます。こちらでも、レシートでも」

ただの手続きだった。

私はレシートに「伊佐地璃子」と書いた。油性鉛筆の先は紙に少し引っかかり、最後の「子」だけ太くなった。続けて、なぜか盤のラベルにも同じ四文字を書いた。知らない歌手の代わりではない。この盤を選んだ人間の名として。

包装を待つあいだ、コンテストの応募画面を開いた。作者名の欄には、いつもの匿名が自動入力されている。消す。指が冷たくなった。私の名前を入れれば、落選も私のものになる。けれど、選ばれたときだけ受け取りに行く生き方は、もう窮屈だった。

店主は盤を無地の袋へ収め、名前を書いた面をこちらへ向けて渡した。

私は応募ファイルの作者名を「伊佐地璃子」に直した。

送信ボタンを押したあと、白いラベルの四文字が、初めて録音された声のように見えた。