焦げた一段
開店前のパン工房は、失敗まで甘く匂う。
一ノ瀬小萩がオーブンを開けると、上段のクロワッサンだけが濃い茶色になっていた。タイマーの不調だ。飯島真帆は鉄板を引き出し、焦げの強いものを端へ寄せた。
「福袋に混ぜるって」
店長の伝言を小萩が読む。食品ロス削減という名目で、形の悪いパンを閉店前に安く売る袋がある。けれど今日の焦げは、形ではなく味の問題だった。
真帆は今月末で辞める。正社員の話を二年待ち、早朝手当の話を半年待ち、最後に「好きなら条件は後からついてくる」と言われた翌日に退職を決めた。
小萩は残る。技術は時間をかけて盗むものだと思っているし、この店の発酵室の癖を誰より知っている。真帆には、その誇りが店に利用されているように見えた。小萩には、真帆が自分で積んだものを途中で捨てるように見えた。
午前七時、常連の女の子が母親の誕生日用に福袋を予約しに来た。握った硬貨を数えながら、「サクサクのやつ、入りますか」と聞く。
小萩は返事をする前に、焦げた鉄板を見た。
「入りますよ」と言えば売上になる。焦げの薄いものだけ選べば、たぶん苦情にもならない。真帆はもうすぐ辞める。小萩はこれからも店長と働く。
真帆が鉄板を持ち上げた。
「廃棄にする」
「焼き直す時間、ないよ」
「小さい生地なら二十分」
「開店準備、誰がするの」
小萩は答えず、冷蔵庫から予備生地を出した。真帆は焦げたクロワッサンを廃棄箱へ運び、小萩は生地を半分に切る。二人で伸ばし、折り、三日月に巻いた。真帆は速さを優先して端を揃え、小萩は一個ずつ巻き終わりを下に置いた。やり方は最後まで違った。
開店のシャッターが上がるころ、小さなクロワッサンが焼けた。真帆は福袋に二つ入れ、小萩は「焼きたて」と書いた紙を貼る。
女の子が袋を両手で抱えたあと、店長が廃棄箱を見て眉を上げた。
小萩は先に廃棄票へ自分の印を押した。真帆も隣へ印を押す。
「私は辞めないからね」
「知ってる」
「あなたのために捨てたんじゃない」
「それも知ってる」
二人は返事を待たず、次の鉄板を一緒にオーブンへ入れた。