煮穴子の小骨

田所匡臣は、カウンターのいつもの席に座ってから、鍵束を置いた。銀色の鍵が二本、新しい輪に並んでいる。

「来週から、横浜です」

「一人で?」

「二人で」

 店主は、おめでとうとも寂しくなるとも言わなかった。匡臣が頼んだ煮穴子を、小鍋の煮汁へ戻した。

 婚約者と暮らす部屋は、もう契約した。家具も選んだ。けれど匡臣は、百八十万円の借金をまだ話していない。学生時代の奨学金ではない。転職に失敗した二年前、生活費をカードでつなぎ、その返済を別の借入で埋めた分だ。

 毎月返している。あと三年で終わる計算だ。だから言わなくても迷惑はかけない、と何度も考えた。だが新居の家賃を決めるとき、貯金額を聞かれて「ほとんどない」とだけ答えた。嘘ではない。嘘ではない言葉を選んだことが、鍵より重かった。

 今夜の客は匡臣だけだった。煮汁がふつふつ鳴り、醤油とみりんの甘い匂いが立つ。皿の穴子は照りをまとい、箸を入れると湯気を逃がしながら柔らかく崩れた。

「骨、ありますか」

「抜いた。でも、細いのは残る」

 店主はそう言って、包丁を拭いた。

 一口目は舌の上でほどけた。二口目で、ごく細い小骨が上顎に触れた。痛くはない。けれど、ないことにはできない。

 匡臣は鞄から、返済予定を印刷した紙を出した。今夜、婚約者へ見せるつもりで持ってきたのに、帰宅は遅くなると連絡していた。

 紙の端に「明日十九時、話す」と書き、写真を撮って予定表へ貼った。許してもらえるとは限らない。新居の契約を見直すことになるかもしれない。それでも、結婚を始める前に、数字を二人のものにする。

婚約者は、隠していた期間の長さに怒るだろう。家計を別にすると言うかもしれないし、結婚そのものを考え直すかもしれない。匡臣は返済額だけでなく、借りた理由と、借入先を一つ増やした夜のことまで話すと決めた。聞かれなければ黙る、という逃げ道も使わない。鍵を二本持つ生活は、同じ部屋へ帰ることより、見せたくない数字を同じ机へ置くことから始める。

 最後の一切れを噛むと、甘い煮汁の奥に小骨の気配が一瞬だけ残り、そのあと穴子の温かさが静かに舌へ広がった。