父の老眼鏡は水槽用
「その老眼鏡、新聞用じゃなかったの」
大学進学で家を出る前夜、棚橋伊澄は父の矩久を問い詰めた。父はメダカ鉢の前で、虫眼鏡まで構えている。
「新聞は勘で読める」
「読めないでしょ」
「政治はだいたい揉めてる。天気は外を見ればいい」
「メダカは?」
「一匹ずつ事情が違う」
母が亡くなった年、沈みきった家へメダカを連れてきたのは伊澄だった。父は最初、「魚に名前をつけても見分けられない」と言った。それなのに今、鉢は四つに増え、産卵床には日付までついている。
「私がいなくなったら、世話できる?」
「失礼な。餌は朝に耳かき二杯。水替えは週一、三分の一。卵は親に食われる前に隔離。水温が三十度を超えたら簾」
すらすら答えたあと、父は小声で続けた。
「白い尾のが部長。右に曲がるのが課長。食べるのが遅いのが、おまえ」
「なんで私だけメダカにされてるの」
「朝が弱く、食卓に最後まで残るから」
伊澄は笑った。笑うつもりではなかったので、途中から泣いた。
母の死後、父娘は必要なことしか話さなくなった。ゴミの日、帰宅時間、牛乳がない。進学先を県外に決めたときも、父は「そうか」としか言わなかった。引き止めないことが、興味のなさに思えた。
父は虫眼鏡を置き、鉢の横から大学ノートを出した。表紙には《伊澄不在時・飼育引継書》とある。
開くと、メダカの記録ではなかった。
《月曜 一限に遅れないよう電話》
《水曜 食事をしたか確認。ただし聞きすぎない》
《金曜 母さんの月命日。無理に思い出させない》
《毎日 帰ってきてもいいと伝える》
最後の一行だけ、何度も書き直した跡があった。
「これ、誰への引継ぎ?」
「俺から俺へ。忘れそうだから」
父は鉢を見たまま言った。
「メダカは水が変わると弱る。でも、ずっと同じ水でも弱る。おまえも……まあ、たぶん似たようなものだ」
翌朝、伊澄は玄関で靴を履き、父へ小瓶を渡した。中には部長の卵が三つ入っていた。
「向こうで育てる。引継ぎ、半分ずつね」
父は「餌をやりすぎるな」と言った。それから、伊澄が門を出る寸前、家の中から大声で付け足した。
「帰ってきてもいいからな!」
近所じゅうに聞こえる声だった。
伊澄は振り返らず、瓶を朝日に透かした。小さな卵の中で、黒い目が二つ、もうこちらを見ていた。