片道ではない辞令
「片道の話じゃないから、見送りはいらないよ」
シンガポールへの十八か月赴任が決まった日、神谷優月は片岡晃太へそう言った。
二人は同じ研究チームで、昼食も帰り道も一緒だった。周囲に関係を聞かれれば「同期」と答える。その呼び名なら、赴任が決まっても壊れない。恋人ではないのだから、待つ約束も、帰る理由も求めなくて済む。
晃太は「分かった」とだけ返した。
赴任準備のあいだも、彼は段ボールを運び、英語の説明書を読み、必要な薬まで一覧にした。けれど帰国後の話だけはしなかった。優月も尋ねなかった。十八か月は長いのか短いのか、二人の関係に名前がないかぎり測りようがなかった。
出発当日、優月は一人で空港へ向かった。大きなスーツケースを預け、保安検査場の列に並ぶ。見送りはいらないと言ったのは自分なのに、振り返るたび胸の奥が沈んだ。
搭乗券を出そうとしたところで、肩をたたかれた。
息を切らした晃太が立っていた。手には花束も餞別もない。代わりに、透明なファイルを差し出す。
中には十八か月分のカレンダー。三か月ごとに、晃太の有給休暇申請と航空券の仮予約が入っていた。優月の帰国予定月には、二人分の温泉宿まで押さえてある。
「見送りはいらないって言ったよね」
「見送りには来てない」
晃太は最初の訪問予定を指す。
「次に会う約束を決めに来た」
優月は笑おうとして、うまくいかなかった。スマホを開き、現地で借りる部屋の住所を彼へ送る。続けて、緊急連絡先の欄に《片岡晃太》と入力した。
関係を選ぶ欄で指が止まる。《同僚》を消し、《恋人》を選ぶ代わりに、優月は画面を晃太へ向けた。
彼は何も言わず、その選択を保存した。
保安検査の案内が流れる。優月が手を差し出すと、晃太は握手ではなく指を絡めた。係員に促される直前まで、どちらも離さなかった。
「優月」
「うん。最初の便、確定して」
彼のスマホに予約完了の通知が届く。
片道の話じゃない。
それは赴任期間のことではなく、二人のどちらからも会いに行くという意味になった。