片道分のネクタイ

搭乗手続きの締切まで十分。宮原泰雅は国際線カウンターの前で、紺色のネクタイを締め直していた。シンガポール支社へ三年。西園寺千尋が最初の昇進祝いに選んだ一本だった。

「曲がってる」

声に振り向くと、千尋がいた。別れ話をした昨夜と同じ白いコートで、髪だけが風に乱れている。

「来ないと思ってた」

「忘れ物を返しに」

差し出されたのは、小さな革の名刺入れだった。泰雅が千尋の部屋へ置いたままにしていたものだ。中には、二人で初めて海外旅行へ行ったときの搭乗券が折って入っている。往路だけ。復路は千尋の財布にある。あの旅行では、帰りの便を一日間違えて二人で空港に泊まった。千尋は搭乗券を『失敗を笑えた証拠』と言い、捨てなかった。泰雅も同じ理由で往路だけを残した。

「昨日の男、誰だった」

「今、それを聞く?」

「答えなかったから、こうなった」

前夜、レストランで千尋が年上の男と資料を広げているのを見た。泰雅は問い詰め、彼女は「説明しても信じないでしょ」と言った。勢いで、遠距離は終わりにしようと告げた。千尋は否定も弁解もせず、テーブルに置いてあったネクタイを一度だけ握った。

千尋はネクタイの結び目に手を伸ばした。昔なら直してくれた指が、今日は途中で止まる。

「現地採用の担当者。私の面接だった」

「面接?」

「同じ街で働けるように。あなたには、決まってから言うつもりだった」

アナウンスが泰雅の便を呼んだ。

「じゃあ、来るのか」

「昨日、辞退した」

「どうして」

「別れようって言った人についていくほど、私は強くない」

千尋は名刺入れを彼の胸へ押しつけ、踵を返した。

保安検査を抜けたところで、携帯に会社のメールが届いた。海外人事から、帯同予定者向け住宅の確認だった。申請者欄に千尋の名があり、備考には〈本人より本日午前、辞退連絡。昨夜二十三時送信のため処理が遅延〉とある。

泰雅は昨夜、自分が送った〈もう来なくていい〉を開いた。既読は、その一分後についていた。

搭乗口の係員が最後の案内をする。彼はネクタイを外せなかった。千尋が結んだ形を崩さないまま、片道分の搭乗券を機械へかざした。