犬の鼻先と赤いナポリタン

「ケチャップ、多めで」

「またシャツに飛ばすよ」

「飛ばさない」

「先週もそう言った」

 洋食堂「まどろみ」の店主、善治は、鉄板の上でナポリタンを返した。太い麺がじゅうっと鳴り、玉葱とピーマンの甘い匂いが店いっぱいに広がる。

 カウンターの下では、看板犬のバセットハウンド、ポルカが長い耳を床へ垂らしていた。客の御子柴亮介が足を組み替えるたび、その鼻先が靴に触れる。

「こいつ、今日しつこいな」

「寂しい人に寄るんだ」

「俺は寂しくない」

「じゃあ腹が減ってるんだろ。ポルカが」

 善治は鉄板を置いた。赤いソースの中央に、半熟の目玉焼きが揺れている。

 亮介はタクシー運転手をしている。昼夜が逆になる仕事は嫌いではない。だが先月、元妻から一通の写真が届いた。かつて一緒に飼っていた老犬が、毛布の上で眠っている写真だった。

〈最近、玄関の音がするたび起きる。たぶん、あなたを待ってる〉

 離婚するとき、「犬はお前になついてるから」と譲った。会いに行けば迷惑だと思い、そのまま二年が過ぎた。

「犬って、忘れるかな」

 亮介が訊くと、善治は粉チーズの缶を拭きながら言った。

「忘れることもある」

「そうか」

「でも、会って思い出すこともある」

 ポルカが大きなため息をついた。まるで話が長いと言うように、亮介の膝へ顎を乗せる。

 フォークで麺を巻く。熱いケチャップの酸味と、焦げたウインナーの脂が口の中で混ざった。子どもの頃、喫茶店で食べた味に似ている。何も決めなくてよかった頃の味だ。

「会いに行って、吠えられたら?」

「吠える元気があるってことだ」

「無視されたら?」

「そばでナポリタンでも食ってろ」

「犬にケチャップは駄目だろ」

「お前が食うんだよ」

 亮介は笑い、目玉焼きを崩した。黄身が赤い麺へ流れ、尖っていた味を丸くした。

 食べ終わるまでに、元妻へ短い返事を送った。

〈明日の昼、少しだけ会いに行っていいか。あいつの好きだった毛布を持っていく〉

 すぐに、犬の足跡のスタンプが返ってきた。

 立ち上がると、案の定、胸元に小さな赤い点がついていた。

「ほら、飛ばした」

「これは目印だ」

 亮介はナプキンで拭かず、そのまま店を出た。

 後ろでポルカが一度だけ鳴いた。鉄板にはまだ熱が残り、ケチャップとバターの香りが、夜の入口まで追いかけてきた。