猫では埋まらないもの

譲渡会の申込書には、猫の名前より先に「十年後の飼育環境」を書く欄があった。

朱里はペンを止めた。

二十九歳。一人暮らし。今後の同居予定、なし。緊急時の預け先、未定。

会場の隅で、灰色の老猫が丸くなっていた。若い猫の前には人だかりができているのに、その子の籠だけは静かだった。札には推定十一歳、腎臓に持病あり、とある。猫は片方の耳だけを動かし、朱里を選ぶでも拒むでもなく、金色の目を細めた。その無関心が、かえってありがたかった。

最近、朱里は夜になると猫の動画ばかり見ていた。独身のまま年を取る不安を口にすると、知人は冗談めかして「猫を飼えば」と言った。柔らかな体温が部屋にあれば、空白は埋まるような気がした。

けれど申込書の前では、その考えが急に卑怯に思えた。猫は不安を吸い取る道具ではない。十年後どころか、この老猫には十年がないかもしれない。先に見送って、今より静かな部屋に戻る可能性だってある。

スタッフが、空欄をのぞき込まずに言った。

「いきなり譲渡でなく、三十日間の預かりもできます。無理なら戻す、ではなく、続けられる条件を一緒に確認する期間です」

差し出された紙は二枚だった。

〈正式譲渡申込書〉

〈トライアル預かり申込書〉

朱里は正式譲渡のほうを一度持ち上げ、戻した。覚悟が足りないからではない。寂しさに急かされて、一生分の約束をしたくなかった。

トライアルの用紙に、通院費の目安、留守時間、預け先候補を書き込む。最後の欄には、〈この猫に期待すること〉とあった。

朱里は考えてから、〈同じ部屋で、それぞれに生きること〉と記した。

帰り道、右手には猫の入ったキャリー、左手には小さな紙袋があった。中には水用と食事用、二つの白い器。どちらも猫のためのもので、朱里の孤独を埋める器ではない。

三十日後、別れるかもしれない。それでも今夜から必要になる薬の時間も、眠れない鳴き声も、自分で選んだ。

玄関でキャリーを下ろし、朱里は預かり申込書の控えを冷蔵庫に貼った。空白を埋めるためではなく、空白のある暮らしに一つの命を迎えた証として。