王宮楽師の息継ぎカヌレ
雨の午後、菓子店〈金色の窓〉に長い笛を抱えた男が現れた。王宮楽師ジークレンは、椅子に座るなり三度だけ浅く息をした。
「今夜、戴冠式で独奏する。だが三小節より先へ進めない」
半年前、肺を病んでから息が続かなくなった。演奏技術まで失ったわけではないのに、後任候補たちは「老いた名声だけの男」と笑う。今夜失敗すれば、二十年守った首席の席を明け渡すことになる。
譜面の端には、三小節目で止まるたび付けた爪痕が並んでいた。息が足りないことより、そこから先の旋律を身体が忘れていくことが怖いという。誰より長く練習してきた曲なのに、近頃は三小節しか吹けない楽師としてしか見られない。ジークレンは笛を抱く腕だけに力を込めた。笛袋の金糸だけが、昔と変わらず輝いていた。
店主パメラは事情を聞き終えると、黒く艶のある小さなカヌレを皿に載せた。
「息継ぎカヌレです。中の空洞に、ゆっくり吸った呼吸を蓄えます。急いで食べると、ただ甘いだけですが」
ジークレンは眉を寄せたものの、菓子を半分に割らなかった。焦がし蜜の殻を一口ずつ噛み、柔らかな内側を時間をかけて飲み込む。そのたび胸の奥が広がり、雨上がりの空気が肺へ重なっていった。
「笛を吹いても?」
「棚の瓶だけは割らないでください」
彼は窓辺に立ち、銀笛を唇へ当てた。
一小節。二小節。いつも途切れる三小節目を越えても、音は細らない。低い旋律が店内を巡り、天井の砂糖飾りを震わせ、最後の高音まで一息でつながった。
パメラが拍手する前に、ジークレン自身が驚いた顔で胸を押さえた。
「息が、まだ残っている」
「菓子一個分だけです。でも、その一曲には足りたでしょう」
彼は代金の銀貨一枚に、王宮の金の演奏券を重ねた。
「明日から毎朝一つ。代金は前払いだ。名声だけの男ではなく、最後まで吹き切る男として注文する」
笛を抱え直した背筋は、来店時より一寸高く見えた。
扉が閉まり、雨音だけが戻る。パメラが演奏券を裏返した瞬間、ちりん、と次のドアベルが鳴った。