王手は夜明けまで

荒砥要の祖父は、死んでも将棋が弱かった。

通夜の夜、親族が帰ったあと、要が一人で盤を片づけていると、向かいに善兵衛が座った。白い着物ではなく、いつもの毛玉だらけのカーディガン姿だった。

「一局」

「死んだ日にまで?」

「死んだからだ」

要は駒を並べた。

善兵衛は生前と同じく、角道を開けたまま銀を迷子にした。

ただし、妙なことが一つあった。

善兵衛は、要が直前に触った駒しか動かせなかった。

要が歩を指せば、祖父も歩。飛車なら飛車。わざと香車を触ってから別の駒を指そうとすると、祖父は「ずるをするな」と盤を叩いた。

「そっちが不自由なんだろ」

「年寄りをいたわれ」

「もう年取らないくせに」

二人は声を殺して笑った。

要は子どもの頃、毎週土曜に祖父と指した。勝てば百円、負ければ盤拭き。中学生になってから行かなくなり、就職して町を出た。

最後に会ったのは半年前だった。

病床の善兵衛は、要の転職話を聞いて言った。

「逃げ癖がついたな」

要は腹を立て、「将棋しか知らない人に言われたくない」と帰った。

本当は、転職ではなかった。

会社を辞めたまま、次を探せずにいた。親にも恋人にも言えず、毎朝スーツを着て図書館へ通っていた。

盤上では、要が優勢だった。

祖父は要の手をなぞるしかない。攻めれば攻め返されるとわかっているので、要は守りの駒ばかり動かした。

「つまらんな」

「勝てないよりいい」

「お前はいつから、負けないために指すようになった」

要は黙った。

善兵衛は要が動かした金を同じように上げた。そのせいで王の横が空いた。

「仕事、辞めた」

要は盤を見たまま言った。

祖父は驚かなかった。

「次は」

「ない」

「そうか」

「怒らないの」

「お前の親じゃない」

「祖父だろ」

「祖父は、負けた孫に百円やる係だ」

善兵衛はポケットを探り、何もないことに気づいた顔をした。

要は笑いながら、飛車を前へ出した。

祖父も飛車を動かす。

互いの王が一気に危うくなった。

夜明け近く、要が王手をかけた。

善兵衛は同じ飛車で王手を返した。盤上ではありえない、同時の王手だった。

「これ、どっちの負け」

「朝になったほう」

障子が白み、祖父の指先が透けた。

要は盤の下から百円玉を一枚出し、祖父の前に置いた。

「今日は引き分け」

「甘いな」

「似たんだよ」

善兵衛は満足そうに鼻を鳴らし、消えた。

朝、要は母に会社を辞めたことを話した。

それからスーツを脱ぎ、初めて職業相談所へ向かった。

盤には、両方の王がまだ倒れずに立っていた。