畳まれた月明かり

「夜は窓をお閉めください」

湖畔の宿〈白帆荘〉では、女主人リゼッタが毎夕、窓金具の緩みを確かめて回る。花瓶の水を替え、羽毛布団を叩き、客の靴を左右そろえる。魔法を使う姿など、長年勤める料理人さえ見たことがない。客が忘れた指輪は必ず持ち主の鞄へ戻り、嵐の日にも窓は一枚も割れないが、皆は宿の造りがよいのだと思っていた。

盲目の旅楽師エノクは、月のよく見える最上階を好んだ。見えない代わりに、彼には魔力の響きが聞こえる。その晩、窓辺で竪琴を調弦していると、湖面の月が一音だけ濁った。いつもなら銀の鐘のように澄んでいる光が、抜き身の剣を爪でこする音へ変わる。エノクは公爵へ知らせようと立ち上がった。

反射した月光から、人型の刃が立ち上がった。王侯を十三人斬った暗殺魔法〈月蝕の刃〉。音も匂いもなく、眠る公爵の部屋へ滑っていく。

廊下を歩いてきたリゼッタは、手に替えのカーテンを抱えていた。刃を見ても足を止めず、窓枠へ布を掛ける。しゃっ、と幕が閉じた。

それだけで月光が四角く切り取られた。

〈月蝕の刃〉は振り返る暇もなく、光ごと折られ、さらに二つ、四つ、八つと畳まれていく。最後には銀色の小さな布片となり、リゼッタの指先に乗った。刃が標的へ放った呪詛さえ、刺繍の模様として布の端に並び、二度とほどけなくなる。彼女はそれをカーテンのほつれへ当て、針を一度通す。暗殺魔法は縫い糸になった。

エノクにはすべて聞こえた。一針の中に、七十二の術式が同時に閉じる音を。そして二十年前、魔王軍の月砲を手袋一枚で包んだ大魔法使いと同じ旋律を。

「女将、あなたの魔力は……」

「廊下に糸くずが落ちていますね」

リゼッタは銀の切れ端を拾い、窓辺の血のような影を布で拭った。公爵は寝息を立てたまま。湖面の月も何事もなかったように丸い。標的だった公爵の枕元には、切れたはずの護符が新品のように置き直されていた。

翌朝、エノクが竪琴を鳴らすと、新しい弦だけが月光の音で応えた。リゼッタは客室の札を返しに来て、彼の窓金具へそっと手を添えた。

「夜は窓をお閉めください」