白球に書けない告白

八回裏、二死満塁。和泉川征矢はベンチ裏で捕手の胸当てをつかんだ。

赤い縫い目のボールが足元を転がる。球場の時計は二十一時十分。次の一球まで、長くても五分だった。

「サインを売ったのは俺だ」

捕手は一度だけ瞬きした。

「冗談なら、試合の後にしろ」

マウンドへ出た瞬間、打球音が響く。満員の歓声が裏返り、征矢は再びベンチ裏に立っていた。時計は二十一時十分。ボールが同じ軌道で靴に触れる。

相手打者へ球種を流した代償に、征矢は借金を消してもらった。借金は、父の工場が倒産したあとに背負ったものだった。正規契約を失えば、実家へ送り続けた生活費も止まる。満員のスタンドには、今夜こそ一軍定着を決めると信じる家族も来ていた。だが胴元が指定したのは、この一球で逆転を許すこと。試合が成立すれば不正も確定し、時間は戻る。ループを終える条件は、投球前に公式戦を中止させることだった。

二周目、振込履歴を見せた。

「サインを売ったのは俺だ」

「なら、俺たちがその上から勝つ」

捕手はボールを拾い、またグラウンドへ走った。

四周目、征矢は肩を壊したふりをした。代わりの投手が投げ、同じ球種を読まれて打たれた。六周目、電光掲示板の電源を落としたが、審判は続行を宣言した。

九周目、捕手が低い声で言った。

「おまえ、俺に止めてほしいだけだろ」

その通りだった。自分で終わらせれば、育成から積み上げた十年も、家族へ送った金も、すべて不正の名で塗り替わる。

十周目。征矢はボールを拾わず、ベンチ前の場内マイクへ向かった。警備員が腕をつかむ前にスイッチを入れる。

「サインを売ったのは俺だ」

四万人のざわめきが一度で消えた。征矢は口座番号と、次の球種まで読み上げた。

審判が両腕を広げ、試合中断を宣告する。赤い縫い目のボールは誰にも拾われず、土の上で止まった。

時計は二十一時十六分になった。

捕手はマスクを外したが、征矢を見なかった。大型画面には、彼の通算記録が一つずつ非表示になっていく。

それでも秒針だけは、前へ進んでいた。