白薔薇の婚姻欄
白薔薇の封印が、婚姻契約書の端で光っていた。
「君のための契約だ」
皇太子アドラスは、前の人生と同じ優しい声で言った。
公爵令嬢リシェルはその言葉を信じ、署名した。契約には「妃の魔力を皇太子が保護する」とあった。実際には保護ではない。彼女の膨大な治癒魔力をすべて吸い上げ、愛人の延命へ流す術式だった。魔力を失ったリシェルは病に倒れ、最後には「役目を果たせない妃」として毒杯を渡された。
銀の杯が唇に触れた瞬間、彼女はこの署名室へ戻った。
同じ薔薇。同じ甘い香。同じく、カーテンの向こうに潜む一人分の呼吸。
以前のリシェルなら、嫉妬深いと思われるのが怖くて黙っていた。今はもう、死ぬほど嫌われた後だ。遠慮する理由などない。
「殿下。保護してくださるのですね」
「ああ。生涯、君だけを守る」
「では、その言葉を先に契約へ」
リシェルは羽根筆で一文を書き足した。
《契約者が他者へ妃の魔力を譲渡しようとした場合、契約は無効となり、企図した者に術式の全負荷が返る》
アドラスの指が止まる。
「既定の書式を変える必要はない」
「君のため、なのでしょう?」
同じ台詞を返すと、彼の笑みが初めて崩れた。
リシェルは白薔薇の封印を押さず、契約書を宮廷魔術師へ差し出す。術式鑑定の光が走り、隠されていた魔力経路が赤い線となって浮かんだ。その先は、カーテンの向こうへ伸びている。
悲鳴とともに、侍女姿の女が転がり出た。胸には魔力受領用の宝石。アドラスが立ち上がった拍子に、白薔薇の指輪が床へ落ちた。
「違う、これは治療のためで――」
「私の同意なしに、私の命を治療費にする契約ですね」
宮廷魔術師が杖を鳴らす。
「王家契約法違反を確認。署名未成立につき、令嬢への拘束はありません」
前の人生では、この時刻、リシェルの手首に妃の証である白い蔓が巻きついた。
今、蔓はアドラスの指へ逆向きに絡み、偽りの誓いを示す黒へ変わる。
廊下の伝令が扉を開けた。
「皇后陛下よりリシェル様へ。婚約解消の承認が下りました」
毒杯の未来より先に、自由の知らせが届いた。