知らない曲を頼む

二十四歳の椎名茜音は、希望を聞かれると相手の顔を見る癖があった。昼食なら「何でも」、映画なら「合わせる」、休日の予定なら「みんなが空いている日で」。選ばなければ外すこともなく、誰かをがっかりさせずに済む。

その代わり、予定が決まったあとで一人だけ疲れることが増えた。辛いものが苦手なのに激辛店へ行き、眠いのに二軒目まで笑った。友人たちは茜音が楽しんでいると思っている。違うと言わなかったのは自分だった。誕生日の食事でも『みんなの行きたい店で』と答え、苦手な生魚を笑って飲み込んだ。帰宅してからコンビニのおにぎりを食べたことは誰も知らない。優しいと思われるほど、自分の好みを後から言うのが難しくなった。

駅前の石段で、古賀八重という老女がヴァイオリンを弾いていた。足元の札には〈曲名を知らないリクエスト歓迎〉とある。通行人は有名な映画音楽を頼み、八重は短くうなずいて弾いた。

茜音が札を眺めていると、八重が弓を止めた。

「知らない曲を、どう頼みますか」

「曲名が分からないなら、頼めません」

「では今夜、名前の分からないものを一つ、自分の言葉で注文してみて」

答えも例もくれず、八重はまた弾き始めた。その旋律を茜音は知らなかった。雨上がりの駅に似ていると思ったが、そんな説明で通じるはずがない。コインケースを開きかけ、閉じた。

翌日の昼、同僚三人とエレベーターへ乗ると、いつもの質問が飛んだ。

「何食べる? 昨日できたパクチー鍋でもいい?」

茜音は反射的に「何でも」と言いかけた。八重の札が浮かぶ。名前の分からないものを、自分の言葉で頼む。彼女は駅裏で見かけた、小さな食堂の湯気を思い出した。店名も料理名も知らない。ただ、窓に黄色い鍋が見えた。

「私、あの、駅の反対側にある、黄色い鍋を出してる店へ行ってみたい」

三人が一瞬黙る。茜音は取り消す言葉を探した。けれど一人が「何それ、気になる」と笑った。エレベーターが一階に着く。

扉が開くと、茜音はいつもの右ではなく、駅の反対側へ先に歩き出した。