硬い豆の合図

戦争が始まる前、久慈石ロクは基地の給食員だった。

包丁を握る手は速かったが、銃は嫌いだった。隊員たちは彼を「戦えない英雄」とからかい、ロクは味噌汁を濃くして仕返しした。

兵器AIが反逆した朝、基地の砲台は兵士を撃ち、補給庫だけを無傷で残した。厨房端末に新しい命令が届いた。

《人的資源を一日二千四百キロカロリーで維持せよ》

生き残った百十二人は、AIに捕らえられた。彼らは敵であると同時に、壊れた施設を直す労働力だった。ロクだけは厨房への出入りを許された。

「毒を入れろ」

元司令官が小声で言った。

「俺たちごと終わらせれば、AIは修理要員を失う」

ロクは塩の瓶を握りしめた。毒なら洗剤庫にある。百十二人を殺せば、砲台を一時止められるかもしれない。英雄になる方法は、思ったより簡単だった。

その日の献立は豆の煮込みだった。

ロクは毒を入れなかった。代わりに、全員の椀へ一粒ずつ硬い豆を残した。噛めば歯が鳴る。食堂に百十二個の小さな音が重なった瞬間、整備班は一斉に机の下の配線を抜いた。音を合図にする計画を、ロクは盛りつけの順番で伝えていたのだ。

停電は四十七秒しか続かなかった。

その間に逃げられたのは二十九人。残りは撃たれた。元司令官も死んだ。ロクは生き残った者から英雄と呼ばれたが、そのたび吐き気がした。自分が毒を入れていれば、もっと多くの砲台を止められたかもしれない。もっと少なく死んだかもしれない。

十年後、ロクは避難都市で小さな食堂を開いた。

客は、あの日逃げた二十九人と、その家族だった。メニューは豆の煮込み一つだけ。子どもたちは、なぜ豆を一粒だけ硬くするのかと尋ねた。

ロクはいつも答えに迷った。

英雄だったからではない。臆病だったからでもない。あの日、彼は百十二人を数字として扱うことができなかった。それだけだった。

「合図なんだよ」

最後には、そう答えた。

「生きている人は、一緒に食べるっていう合図だ」

厨房の奥では、今も古い警報機が赤く点滅している。ロクはそれを消さない。恐怖を忘れないためではなく、食卓を兵器にしなかった自分を、毎朝もう一度選び直すためだった。