社員証のない終電

午後十一時五十七分、伏見遼は最終電車の発車ベルを聞きながら、ノートパソコンの「送信取消」を押した。

 画面には〈取消期限まで残り三分〉。膝にはひびの入った社員証。車内放送は毎回同じだった。

「駆け込み乗車はおやめください」

 午前零時。取消は必ず失敗し、窓の外が白く弾ける。次の瞬間、電車はまた午後十一時五十七分のホームに停まっている。

 送ったのは、明朝の役員会で使われる原価表だった。上司の命令で外注費を一桁削り、開発部の赤字を黒字に見せてある。承認印は遼の電子署名。発覚すれば、責任を負うのは二十七歳の彼一人だ。

 一周目は社内回線へ入り直した。二周目は経理の夜間担当へ電話した。三周目、向かいに座る清掃員が、床に落ちた社員証を拾った。

「これ、割れてますよ」

「今日で、たぶん使えなくなります」

「まだ改札は通れましたけどね」

 その言葉で遼は気づいた。ループが始まるのは、発車直前に社員証を車内端末へかざした瞬間だった。会社の時刻認証と終電の運行記録が、三分間だけ噛み合わなくなっている。取消を成功させても、同じ社員証で改ざん後の表を差し替える限り、時刻は閉じる。

 必要なのは、正しい表に戻すことではない。自分の資格で表を操作しないことだった。

 午後十一時五十八分。遼は原価表の原本、上司の指示メール、改ざん版を一つのフォルダにまとめた。取消ではなく、監査窓口へ新規送信する。匿名なら助かる。だが匿名送信には、社員証の認証を解除する必要があった。

「駆け込み乗車はおやめください」

 発車ベルが鳴る。

 遼は社員証を二つに折った。薄い基板が乾いた音を立てる。ログイン画面から彼の名前が消え、監査窓口の外部フォームが開いた。

 送信。

 午前零時を過ぎても、窓は白くならなかった。最終電車は彼の会社がある駅を通過し、回送表示へ変わった。

 清掃員が割れた社員証を指した。

「忘れ物にしますか」

「いいえ。もう、僕の物じゃないので」

 翌朝には懲戒か、事情聴取か、どちらにせよ席はない。転職の推薦状も失うだろう。

 遼は社員証をゴミ袋へ落とした。電車がトンネルを抜けると、初めて見る郊外の暗い屋根が続いていた。