祝福の娘と呼ぶな
レネは「祝福の娘」と呼ばれるたび、胸の奥が冷えた。
その名で神殿に閉じ込められ、病人を治すまで眠ることも許されなかったからだ。
皇宮へ保護されてから、皇帝アドラスは一度だけ命じた。
「彼女の名はレネだ」
以来、帝国でその呼び名を口にする者はいない。血の粛清で玉座を得た皇帝は、言い訳を聞かないことで恐れられていた。
朝食には、レネが苦手な香草が一枚も入らない。彼女が匂いで匙を止めたことを、アドラスだけが覚えていた。
「私一人のために厨房を変えたのですか」
「毎朝嫌な顔をさせる理由がない」
ある日、大神官が百人の聖兵を連れて宮殿へ来た。
「祝福の娘を返還せよ。疫病の国へ遣わす」
レネの前には、移送命令書と金の首輪が置かれた。
「行きません」
大神官は彼女を見ず、皇帝へ言う。
「使命を理解していないだけです。陛下から命じてください」
アドラスの指先が玉座を一度叩いた。広間の窓が震える。
だが彼はレネの代わりに答えなかった。
「もう一度、本人へ聞け」
大神官は苛立ちながら顔を向ける。
「祝福の娘よ、神の命に従うか」
「その名で呼ばないで。私はレネです。疫病の治療法は渡します。でも、神殿には戻りません」
「個人の意思で神命を拒むな!」
アドラスが立った。聖兵たちは一斉に膝をつく。
「神命とやらは、本人の拒否を聞き取れぬほど耳が悪いのか」
皇帝は首輪を砕き、治療法の写しだけを使節へ渡した。
「知識は届ける。レネは届けない」
大神官が所有権を主張すると、アドラスの目が完全に冷えた。
「人を物として数える神殿に、帝国の門は二度と開かぬ」
彼はレネ名義の自由通行証へ印を押し、公衆の前で告げた。
レネは小さく尋ねた。
「陛下は、私に残ってほしいのですか」
「ほしい」
即答だった。けれどアドラスは続ける。
「余が望むことと、おまえが従うことは別だ。明日、町の診療所へ移りたいと言えば馬車を出す」
その場にいた臣下たちは驚いた。皇帝が欲しいものを欲しいと認めながら、手に入れる命令を出さない姿を、誰も見たことがなかった。
「レネはここに残ることも、明日去ることもできる。余が望むのは彼女だが、決めるのは彼女だけだ」