祝電を裏返す
綾戸真帆が逃げ込んだのは、ホテル三階のビジネスセンターだった。
プリンターの前で、ウェディングドレスのまま立っている。瀬尾楓香が見つけたとき、真帆は招待客用の配信ページを開き、削除ボタンの位置を探していた。
式は親族だけの予定だった。けれど新郎は、来られなかった友人のためにと、挙式から披露宴までを限定公開で配信していた。真帆がそれを知ったのは、控室へ届いた祝電だった。
《治療を乗り越え、次はうれしい報告を待っています》
二人が不妊治療を始めたことを、新郎は善意で親友に話していた。配信画面には祝電を映すコーナーまで組まれている。病院の待合室で泣いた日も、採血の痣も、真帆は誰にも見せていない。
楓香は広報の仕事をしている。うれしいことは共有した方が大きくなる、と本気で思うタイプだった。真帆が旅行の写真すら投稿しないのを、少し窮屈だとも感じていた。
「パスワード、彼しか知らない」
真帆の指が震えていた。楓香は慰めず、受付へ内線をかけた。配信会社の担当者を呼び、契約者本人の同意が確認できない映像に医療情報が含まれる可能性を伝える。声は仕事のときと同じ平板さだった。
担当者が来るまでの四分間、二人は会場から運ばれてきた祝電を一通ずつ裏返した。赤い台紙、金の鶴、押し花。机の上に伏せて並べると、祝いの言葉は見えなくなったが、紙の重さだけは残った。
「配信を止めても、式はできるよ」
楓香は言った。真帆は首を横に振った。
「今は、戻れない」
楓香には、その「今」が一日なのか一生なのかわからない。わからないまま、配信停止の申請書を真帆の前へ滑らせた。真帆が署名し、楓香が時刻を書いた。
廊下では司会者が二人を捜している。楓香は最後の祝電を伏せると、真帆のスマートフォンから位置情報の共有だけを切った。家族に無事を知らせる連絡先は残した。
二人はプリンターから出てきた停止確認書を一枚ずつ持ち、サービス用エレベーターへ乗った。扉が閉じる直前、真帆は机の祝電を見た。
楓香も同じ方向を見たが、もう表には返さなかった。