私が最後に消える記憶
私は、エネラとソウディが初めて手をつないだ夜の記憶である。
雨上がりの石橋。
エネラの右手は冷たく、ソウディは緊張して、親指をどこへ置けばよいか迷っていた。
二人が笑った瞬間まで、私は細部を残している。
この国では、心に記憶を蓄えすぎると〈追憶熱〉を発症する。
熱は脳を焼き、最後には現在と過去の区別を奪う。
治療は一つ。強い記憶から順に、忘却師へ抜いてもらうこと。
エネラの熱は、戦場から帰ったあとに始まった。
炎、叫び、失った仲間。
けれど記憶は根を絡めていた。苦しい夜を支えたソウディの声だけを残し、戦争だけを抜くことはできなかった。
忘却室で、二人は向かい合った。
「私を忘れたら、楽になる?」
ソウディが訊く。
「分からない」
「忘れない治療を探そう」
「そのあいだに、あなたを敵だと思うかもしれない。昨日、私は鏡の自分へ剣を向けた」
ソウディは泣いた。
それでも、治療台に縛りつけようとはしなかった。
忘却師が最初の糸を引く。
二人で暮らした家の匂いが消えた。
次に、朝食の焦げたパン。
初めての喧嘩。
仲直りの歌。
一つ消えるたび、エネラの顔から痛みが薄くなり、ソウディの顔には痛みが増えた。
私は最後まで残された。
すべての恋の入口だったからだ。
「これを抜けば、彼女はあなたを知りません」
忘却師が言う。
ソウディはエネラの手を握った。
あの石橋の夜より、ずっと強く。
「幸せになって」
「あなたは?」
「私は、覚えている側を引き受ける」
エネラは泣いていた。
まだ彼を愛していたからだ。
その涙も、間もなく意味を失う。
銀の鉤が私へ触れた。
私は二人の胸から細い光となって引き出される。
消える直前、私は見た。
ソウディが笑っていた。
エネラが怖がらないように、初対面の人へ向ける穏やかな笑顔を練習していた。
次の瞬間、私は途切れた。
治療後、エネラは椅子の男を見た。
「どなたですか」
「通りすがりです」
「なぜ泣いているの」
「雨が目に入っただけです」
窓の外は晴れていた。
ソウディは彼女を町の門まで送り、そこで別れた。
エネラは軽い足取りで新しい宿へ向かった。
私はもう存在しない。
それでも、忘れられた人が笑顔で手を放したという事実だけは、誰の記憶にもならず、世界のどこかへ残った。
たぶん愛とは、覚えてもらうことではない。
自分だけが覚えている別れを、相手の明日へ持ち込まないことなのだ。