私は水を受けるためにある
私は、総合病院一階の洗面台だ。
水を受けるために作られた。だから濡れることに不満はない。
朝、急ぐ医師が水を跳ねさせる。
昼、子どもが泡を山ほど作る。
夜、見舞い帰りの人が顔を洗い、涙と水を一緒に流す。
清掃員が何度も私を拭く。乾いても、すぐまた濡れる。それが役目だと思っていた。
ある日、手の震える老人が来た。
蛇口を閉めようとして、水を大きく飛ばした。袖も床も濡れた。老人は慌ててペーパーを取ったが、指がうまく動かず、紙を何枚も落とした。
後ろにいた若い女性は、時計を見ていた。首には面会証。急いでいるらしい。
老人は言った。
「先にどうぞ。片づけますから」
女性は、落ちた紙を拾った。
「私もさっき飛ばしました。一緒に拭きましょう」
本当ではなかった。女性が使った場所は乾いていた。
けれど老人は謝るのをやめた。
二人は私の縁を左右から拭いた。女性は老人の手から仕事を奪わず、届きにくい鏡の下だけをぬぐった。
「きれいになりましたね」
「二人だと早い」
老人は少し笑った。
数か月後、女性がまた来た。今度は右腕を吊っていた。手術を受けたらしく、左手だけで石鹸を押そうとしている。水を止められず、私の上へ細かな飛沫が広がった。
隣にいた老人が、ゆっくりペーパーを取った。
以前の老人だった。
「私も飛ばしました。一緒に拭きましょう」
今度も、本当ではなかった。
女性は驚いたあと、笑った。
老人は震える手で私の右側を、女性は動く左手で左側を拭いた。時間はかかった。清掃員なら十秒で終える仕事に、一分以上かかった。
それでも私は、その一分を長いとは思わなかった。
人間は、ときどき汚した量より多く拭く。
自分の水滴と、前の人の水滴と、誰かが恥ずかしいと思った気持ちまで。
私は水を受けるためにある。
そして乾いた場所を、次の人へ渡すためにも、ここにいるのかもしれない。
二人が去ったあと、次に来た子どもが母親へ尋ねた。
「どうしてここだけ乾いてるの?」
母親は答えを知らず、「前の人が拭いてくれたのかもね」と言った。
子どもは手洗い後、自分の水滴を小さな指で数え、ペーパーで一つずつ消した。
私はまた濡れ、また乾いた。
人間の親切は、乾いた状態ではなく、拭こうとする手の中に残るらしい。