空箱をひとつ残して

 引っ越し業者が戻るまで、あと十五分だった。

 北見汀の新しい部屋には、未開封の段ボールが壁のように積まれていた。その中央で、瀬尾柊吾が空箱を畳んでいる。

「これで最後?」

「たぶん」

「相変わらず荷物、少ないね」

「軽いほうが、すぐ出ていけるから」

 柊吾の手が止まった。

 四年前、二人は同棲を始めるはずだった。家具も冷蔵庫も選び、汀は先に旧居を引き払った。けれど入居日の朝、柊吾は来なかった。机の上に〈自信がない〉と書いた紙だけを残し、電話にも出なかった。

 三日後に謝られても、汀は会わなかった。新居の床で一人、二人分のマグカップを新聞紙へ包み直した夜だけは、今も引っ越すたびに思い出す。荷物を減らしたのは趣味ではなく、待つ場所を作らないためだった。

 今日、共通の友人から引っ越しを聞いた柊吾が、手伝いを申し出た。断るつもりだったのに、大きな本棚を一人で起こせないという現実が、四年分の意地より重かった。

「ごめん」

「それ、箱より軽い」

「分かってる」

「分かってるも軽い」

 汀はカッターを閉じた。玄関の外でトラックのバック音がする。あと十分。

「怖くなったんだ」

「私も怖かった」

「汀は平気そうだった」

「だから逃げていいと思った?」

「思ってない。逃げたあとで、自分がしたことを知った」

 狭い廊下では、横をすり抜けることもできない。柊吾はポケットから古い合鍵を出した。入居日に渡すはずだった、前の部屋の鍵だ。

「返す」

「もう開かないよ」

「うん」

 汀はまだ彼を好きだった。だから言えなかった。好きだと認めた瞬間、待っていた自分まで、また置き去りにされる気がした。

 窓の外では、夕方の風がまだ付けていないカーテンを想像させた。新しい部屋には、柊吾との思い出が一つもない。それが安心で、少しだけ寂しかった。

 業者がインターホンを鳴らした。

「次は逃げない、なんて言わないで」

「言う資格ない」

「じゃあ、これ持って」

 汀は畳んでいない空箱を一つ、柊吾の胸へ押しつけた。

「軽いよ」

「違う」

 彼女は玄関の先、新しい部屋の奥を指した。

「軽くないものを、一緒に運んで」

 柊吾が箱を抱え直す。汀は返された古い鍵を捨てず、空箱の底へ入れた。業者に道を空けながら、彼女は柊吾を外へ出さなかった。