笑い声をミュートしない
千景は、笑う前に息を止める癖があった。
元恋人に「その笑い声、鳥みたいで恥ずかしい」と言われてからだ。映画館では口元を押さえ、飲み会では肩だけ揺らした。オンライン通話なら、面白くなりそうな話が始まった時点でミュートにする。笑い終えてから解除すれば、誰にも音は届かない。
土曜の夜、高校時代の友人三人と画面越しに話した。近況はさほど華やかではなく、一人は洗濯機を回しながら、もう一人は顔に白いパックを貼ったままだった。
友人が、会社のオンライン朝礼で猫のフィルターを外せなくなった話をした。真面目な部長の頭に灰色の耳が生え、謝罪するたび髭が動いたらしい。
千景の喉から、ひゅっと高い音が漏れた。続いて、堪えきれない笑いが胸を突き上げた。
指はいつものようにマイクの印へ動いた。
そのまま、止めた。
笑い声は思った以上に大きく、途中で裏返った。自分のイヤホンに跳ね返り、千景は一瞬、元恋人の顔を思い出した。画面の隅にある自分の頬が赤くなっていた。
けれどミュートにはしなかった。
友人たちもつられて笑い、猫耳の話は別の失敗談へ流れていった。誰も千景の声を評価しなかった。よかったとも、気にするなとも言わなかった。ただ会話の中に混ざり、次の音に押されて消えた。
話題が変わってからも、千景は「さっきうるさくてごめん」と言う機会を探していた。友人が洗濯終了の音に気づき、別の友人がパックを剥がし始める。謝る隙はいくらでもあったが、千景は言わなかった。笑った事実を、気遣いという形で回収しないまま、最後の挨拶まで画面の前にいた。
通話が終わったあと、千景は静かな部屋でイヤホンを外した。笑い声を思い出すと、まだ少し恥ずかしい。口を閉じていればよかった気もする。
スマホには、友人から猫耳のスクリーンショットが届いた。千景は吹き出し、今度は一人だったので、いつものように口を押さえかけた。
手を膝へ下ろした。
短い笑い声が、洗いかけのマグカップや畳んでいない服の間を通った。誰にも聞かれない音だった。それでも千景は、最後まで小さくしなかった。